1. 妖精と盗賊 前編
バンは歩いていた。何の変哲もないあぜ道を、前を見てひたすらずんずんと進んでいた。
「ついて来んなよ」
前を睨んだまま、バンは言った。吐き捨てた言葉は彼の脇を通り過ぎて、後ろへと流れた。目の前の道は長く続いている。彼の行く先にも左右にも、邪魔するものは何もなかった。背後から迫る足音さえ、なかった。
「好きでついて来てるんじゃないわ」
誰もいないはずの道の上で、バンに届くのは女の子の声だった。高く愛らしい響きには棘が含まれている。つんけんとしたセリフに、ぎゅっと眉をしかめたバンは振り返る。彼の視界に現れたのは、声から想像するにふさわしい、小さな女の子の姿だった。
砂金で出来た川のような、少女は目の覚める金色の髪を肩まで伸ばしていた。細い毛先がなびくデコルテはむきだして、真珠を融かした肌の白さは色気よりも寒々しくバンの目に映る。角ばったところなどひとつもない、鎖骨から首、顎元への華奢な線を辿れば、バンの手のひらにすっぽりと収まってしまいそうな、小さな顔がこちらを見下ろしていた。同じく金の睫に縁取られた、大きな瞳は蜂蜜色をしている。
「しつけぇんだよ、ゆうべから」
十人いれば十人が、可憐と見とれるであろう少女の容姿に、しかしバンは数少ない例外として傅くことを拒んだ。バンの強気に、美しい少女もまた、その美しさを鼻にかけることなく挑んでくる。
「だから、好きでやってるわけじゃないの」
バンと同じくしかめっ面の彼女を、人とカウントすべきかバンはずっと迷っている。なぜなら、この怖い顔の小さな美女は宙に浮いていた。おまけに、彼女の吹けば飛ぶような華奢な体からは、後ろの景色が透けて見えた。
向かい合う彼女との、距離はおよそ20ヤード。その場でバンが一歩後ろに後ずさると、同時に彼女の体がバンの一歩分近づく。同じことを、すでにバンは飽きるほど繰り返していたが、この結果は変わらなかった。まるで20ヤードの見えないロープに結ばれているかのように、二人はそれ以上離れることができなかった。
「よっ、と」
またバンが、後ろに大きく跳ぶ。少女の体が勢いよく前に押されて、いきなりのことに彼女はつんのめるようにして小さな悲鳴を上げた。無様な姿に、バンはカカッと笑った。
少女が顔を上げると、顎下ほどの長さの髪が前にかかって乱れた。乱れても美しい金髪を彼女は手ぐしで整えると、キッと丸く大きな瞳を尖らせてバンを睨んだ。
「えいっ」
「う、おっ」
掛け声とともに、今度は彼女が大きく後ろに下がる。見えない力に背中を押され腹を引かれ、バランスを崩したバンは盛大に前に転んだ。
四つんばいになった彼を、少女は折れそうなほど細い腰に手を当てて見下ろしている。得意げに笑いながら、ほとんど凹凸のない胸をそらせていた。その胸は、やはり後ろが透けて見えた。
「何すんだよ、てめぇ」
「こっちのセリフよ」
20ヤード離れてにらみ合う二人の、出会いはゆうべの夜にさかのぼった。
ブリタニア北東部の港湾都市、アバディン。漁師と博打打ちが縄張り争いをするその街で、一番の豪邸といわれる貴族ロクサヌの館に、バンは盗みに入った。6.9フィートの長身に銀髪紅眼のキツネ顔とくれば、バンデット・バンの通り名を知らぬ同業者はモグリだ。その名のごとく、盗賊を生業とする彼の目当ては、ロクサヌの美術コレクションだった。
巨体に違う俊敏な身のこなしで、裏口から邸内に入り込んだバンは、ガラス張りのガーデンルームを抜けて本館への侵入を果たした。大きなレンガ積みの暖炉が設えられたグレイトルームを通ってラウンジにたどり着くのに、大した時間は要さなかった。
社交室の名の通り、貴族の社交場であるその部屋こそ、貴族ロクサヌのコレクションルームだった。見張りの目をかいくぐり、仕込まれたトラップも難なくクリアしたバンは、目の前にずらりと並んだ絵画彫刻、陶器やアンティークのたぐいにほくそ笑んだ。どれもこれも、闇の市場に流せば破格の値がつく、一級品の逸品珍品ぞろいだった。
「さーて、どれからいただくかな」
描きあげた画家がその場で自殺したという絵画、古の王が自らの権力と引き換えに求めた聖杯、持ち主に富みと不幸を招く短剣。さすが、噂に違わぬロクサヌのコレクションに、バンはその紅い目を輝かせた。
いわく因縁には事欠かないコレクションの品定めを始めようとした矢先、バンの視界を宝以外の何かがかすめた。目を凝らし、見えたのは何かの影だ。大きな額縁が飾られた壁の足元で、立ち尽くすそれは人の形をしていた。
白いドレスの少女像。その後姿にバンは首をかしげた。どうして壁に向かい合うように置かれているのか、興味を惹かれたところで彼は己の過ちに気づいた。
あれは、像ではなかった。
彼女がこちらに気づいて顔を上げた。大きな瞳が愛くるしい、金髪の少女は幼なかった。ネグリジェとは異なる、しかしイブニングドレスにしては控えめな、白く清楚なドレスのヒダが振り返る彼女の体に沿ってひらめいた。
バンは即座に、この屋敷の女主人の娘か孫を疑った。肝心の少女は、闖入者にも悲鳴ひとつあげなかった。肝が据わっているのか、はたまた頭が真っ白になっているのか、彼女の動向を探ってバンも動けずにいた。高さの違う二つの視線はしばしの間絡まりあい、そのうちにバンは、少女について奇妙なことに気がついた。
少女の体が、透けている。彼女の後ろに飾られた額縁の底辺が、彼女の顔の奥から覗いていた。おまけに、彼女の足を覆い隠す長いドレスの裾が、ほんの少し宙に浮いているではないか。
「嬢ちゃん、幽霊か?」
シンプルな発想でバンは尋ねた。少女はふるふると首を振った。痩せた繊細な金の髪が、パサパサと少女の頬の上で揺れた。髪とドレスのせいだろうか、夜の帳の中で彼女の周囲だけがほのかに光っているように見えた。
「妖精よ」
「妖精の幽霊か」
盗賊の青年と、自称妖精の半透明な少女。その二人が交わした、これが初めてのやりとりだった。
それ以後、彼女はバンの傍について離れなくなった。知らぬ間に二人を結んだ、20ヤードの目に見えない紐のせいだった。
盗賊なんてヤクザな身の上とはいえ、バンは今日までそれなりにモテてきた。盗みの腕は一級で、鼻筋も高く通った若い男とくれば女のほうから寄ってくる。しかしヤクザな彼に秋波を送るような女は、裏通りに立つ商売女か、年寄りのボスに欲求不満を抱えた情婦ばかりだった。
彼女たちの誘いは、魅力的だが恐ろしい。ベッドの中で男に尽くすことにかけて、彼女たちの腕はおそらく天下一品だろう。けれど彼女らと寝るには、ポン引きや旦那に知れて、簀巻きにされる危険と背中あわせになる覚悟もいる。身包みを剥がされればまだマシだ。口に石を詰められて港に浮かんだ同業者をバンは何人も知っていた。おかげで女とくれば警戒心が先にたち、二十歳をすぎた今もバンは「好い女」に巡り会えずにいる。
行きずりの盗賊仲間に、童貞をからかわれた回数は数え切れなかった。だからといって、こんな幼女と呼べるかもわからない存在に、付きまとわれたい願望を抱くほど飢えてはいない。
「ったく、妙なモン拾っちまったぜ。地縛霊なら地縛霊らしくロクサヌの屋敷にいろってんだ」
膝の汚れを払い落としながらバンが立ち上がると、すぐ目の前に彼女がいた。やはり幼い。腕は棒きれのように細くて、胸にいたってはほぼ無いに等しかった。たとえ彼女が客引きに立っても、なびいてくれるのはロリコン趣味のヒヒ爺がせいぜいだろう。
「だから幽霊じゃないわ、妖精よ」
バンの失礼な想像を、彼女はぴしゃりと声で叩いた。友好的とは程遠い、彼女の態度にバンはますます顔をしかめる。女は優しくて大人しいに限る、全人類共通の理想だと、バンは内心で少女への厳しい査定を下した。
「浮いてて透けてりゃ幽霊だろーが。第一、妖精なら羽があんじゃねーのかよ」
「そ、それは……」
バンは少女の後ろに回ってみるが、彼女の背中にあるのは白いドレスのリボンだけで、羽らしいものは何も見えない。まさかリボンをはためかせて飛ぶわけじゃないだろうと、からかえば彼女は黙りこんだ。
「ま、嬢ちゃんが妖精だろーが地縛霊だろーがどうでもいいぜ。さっさと元いた場所に戻りな。それとも迷子か?」
しっ、しっ、と邪険に手で払うと、自称妖精の少女の顔が険しくなる。幼さが勝るその顔立ちでは、怒った形相もちっとも怖いと感じられなかった。
「自分の帰る場所くらいわかるわ、子どもじゃないの。それよりも昨日、あなたと会った場所はどこなの? あなたは誰? あそこで何をしていたの?」
「次から次へとうるせぇなぁ。お前がいたのは、ロクサヌっつー貴族ババァの館さ。で、俺は賊」
「賊? 変な名前ね」
「あのな、嬢ちゃん。賊ってのは名前じゃねぇ、泥棒ってこと」
「何か盗んだの?」
「そのつもりが、てめぇのおかげでしくじったんだろーが」
彼女の質問攻めは、今に始まったことではなかった。ゆうべのロクサヌの館でも、彼女はずっとこの調子だった。ここはどこ? あなたは誰? どうして私はこんなところにいるの? 客と値段交渉をする売女だってこうはしゃべらない。彼女と話す声を見張りに聞きとがめられたバンは、せっかく忍び込んだラウンジから一目散に逃げ出すほかなかった。安全なところまで逃げ延びて、ほっと一息ついて振り返れば彼女がついてきていて呆然となった。
「一体なんなんだよ、てめぇは。俺に恨みでもあんのか」
盗みにしくじるわ、よくわらかない荷物をしょいこむわ、妙なことになっちまったとバンはその場で頭を抱えた。
その姿を見下ろす少女もまた、自分の状況のわからなさに心の中で頭を抱えていた。目が覚めたら、周囲は真っ暗で、まるで知らない建物の中にいた。驚きのあまり動けずにいるところに、現れたのが彼だった。彼から一定以上離れられないことも、自分が半透明である理由も、彼女にはわからないことだらけだった
少女は自分の広げた両手をじっと見つめた。確かに地面が透けて見える。青年が口にした「妖精の幽霊」という言葉が、くやしいけれど今の状況には一番しっくりときていた。
なら自分は死んでしまったのか。一体いつ、どうやって。そして死んだとするなら、どうして人間の住む町にいるのか。
賊の青年の言葉を信じるのなら、彼女が目覚めた場所はロクサヌという名の貴族の屋敷だった。そこで目覚めて彼に出会う以前、彼女は妖精王の森にいた。ブリタニアの北の極地の広大な森の奥深くで、彼女は生命の泉と呼ばれる杯を守っていた。彼女はいなくなった兄の代わりに、森と妖精族の秘宝を守る義務があった。
おそらく今、自分はその義務を果たせていない。彼女は妖精王の森と、その奥に守られた生命の泉のことを思った。生命の泉は、飲むものを不老長寿にすると信じられている。だから泉を狙って森に侵入してくる輩が後を断たなかった。不届き千万な人間たちを森から排除するのが彼女の役目だ。妖精王の森に棲む、生命の泉を守りし聖女。それが人間たちの間での彼女の呼び名であり、彼女の本当の名がエレインだと知る者はいなかった。
「ねぇ、あなた。妖精王の森って聞いたことある?」
エレインの名を知らない、彼女が妖精であることも今ひとつ信じようとしない青年に尋ねてみた。彼の銀髪は、夜陰に沈むロクサヌの屋敷でも眩しく見えた。紅い瞳にいたっては、夜行性の獣みたいに光っていた。その風貌と大きな体は、泥棒をするには不向きだろう。だからこそ、彼の腕がいいのだとわかる。そんな彼なら、生命の泉の伝説を知っているかもしれない。
「あるけど……」
返事の声が低い理由を、エレインは特に考えようとは思わなかった。
「そこに行ってみない? 私の故郷なの。そこに行けばきっと」
私の体も元に戻る。根拠のない仮定を言い切る前に、青年が口を挟んだ。
「やなこった。ブリタニアの北の果てだろ? インヴァネスより北には行ったことがねぇ。人里もまばらだって話だし、第一、行くための金もねぇよ」
青年の言葉は冷たい。エレインの要望に応える意志がないことを、その声の響きがきっぱりと表明していた。森の話に嫌悪すら匂わせる彼には、取りつく島もない。
エレインの申し出を拒む、バンにはバンの事情がある。彼にとって、妖精王の森にまつわる事柄は、その存在を彼に語ってくれたひとのことを思い出させた。
「北の妖精王の森の中にはでかい大樹がそびえ立ち、その頂上に聖女が守りしお宝――生命の泉があるって噂さ」
バンが初めて妖精王の森のことを知ったのは、そんなおとぎ話の一節からだった。「彼」は妖精王の森とその秘宝にまつわる与太話を、憧れをもってバンに吹き込んだ。その同じ口で、「彼」はそんな遠い場所にはいけないとバンに告げたのだ。「彼」には、「彼」の帰りを待つ大切な一人息子がいたから。そして「彼」はバンも息子だと言ってくれた。
それなのに、「彼」はバンの前から姿を消した。もうバンの傍らにいないその人を、妖精王の森の話は否応なく思い出させる。
バンの妖精王の森に向ける複雑な思いを、エレインが知るはずもなかった。バンの一切を拒むような口ぶりに、エレインはむっとした。何もそんな言い方をしなくていいじゃない。腹を立てたせいで、エレインは彼がなぜ妖精王の森の位置を正確に知っているかまで考えようとはしなかった。
エレインは、大きなため息と共に肩を落とした。
「そう……。そうよね」
エレインの怒りは長く続かない。もとより穏やかな性格のエレインに、負の感情を持続させることは難しかった。怒りや悲しみだけでなく、喜びや楽しさもエレインの心に長く留まることはなかった。兄の不在を埋める役目は700年にも渡っていて、強欲な人間たちとの無益なやりとりは彼女の心を疲弊させていった。
700年を通じて残ったものは、落胆とそれに続く諦めだけ。今も、バンのおかげで灯った怒りの火はたちまち落胆の水に流され、諦めのしずくが、エレインの心を流れて落ちた。
「どうしよう……」
エレインは空を見上げた。今の彼女には、妖精王の森のある方角さえわからない。頼れるのは賊の青年ひとりだったけれど、彼にもたった今協力を断られてしまった。出会って間もない、しかも互いに良い感情を持っていない相手に、頼むには面倒すぎることだとはわかっている。けれど、彼が動かないということは、彼から離れられないエレインも動けないということだ。彼女よりはるかに上背のある彼を、まさか抱えて飛んでいけるはずもなかった。
「ああ、辛気臭ぇ!」
途方に暮れるエレインのそばで、青年の声が上がった。がしがしと短い銀髪をかきむしっている。彼もまた長いため息をついた。そして、彼はエレインと向かい合った。
「とりあえず、腹ごしらえをしようぜ」
彼はそう言って、エレインを街に誘った。今まで二人が歩いてきたあぜ道を、引き返すことを意味していた。