5. エレインの依頼 前編




 「裸になるなら言ってよ!」
 昼時にはやや早い、快晴の空にエレインの声が響いた。顔を赤くして背を向けたエレインの後ろで、つっ立っているのは生まれたままの姿をしたバンだ。その全身は宿の裏庭の井戸からくみ上げた水で、しとどに濡れていた。たった今も、綺麗に割れた腹直筋の溝を、肩から胸板を伝った水滴が流れ落ちる。
「水浴びひとつで、なんでお前の許可がいるんだよ」
「女の子が近くにいるのよ!」
「だから?」
 王を除けば、およそ妖精族に身分に上下は存在しない。そんな彼らでさえ当然と知る礼節を、バンは一顧だにしていなかった。信じられないと、肩を怒らせるエレインにバンはますます怪訝そうな声をあげた。
「だいたい、お前のためにやってんだぞ」
「私のため?」
「今夜、ロクサヌの館に忍び込むんだろーが」
 大胆な犯罪行為を、バンは平然と口にする。
「あなたに、盗んで欲しいものがあるの」
 エレインの依頼に、バンはゆうべ確かに頷いた。だがそれは酒の勢いというやつで、寝て起きてしまえばきっとバンは忘れている。そんなエレインの予想を、バンの濡れそぼった裸が裏切っていた。
 大きな仕事の前には必ず水浴びをする。体臭の元になる汗を落とすためだ。ロクサヌの館には番犬がいて、奴に臭いを覚えられてはあとあと面倒なことになるとバンは言った。一着しかない服も洗って、窓際に干してある。当然着替えのないバンは、服が乾くまで裸で待つしかなかった。問題は、その姿で彼が宿の部屋をうろつくことだ。
「本当に引き受けてくれるのね……!」
 積極的なバンの言動に、嬉しくて勢いよく振り返ってしまったエレインは、目に飛び込んできたものに絶句する。あわてて両手で赤くなった顔を覆った。
「せめてシーツくらいかぶって!」
「えー」
 たまったものではないエレインの悲鳴に、バンは至極めんどくさそうな顔をした。
 バンの羞恥心のかけらもない行動に戸惑いながら、エレインは意外な気持ちを抱えていた。酔いの醒めた彼が昨日の話を覚えていたことはもちろん、それ以上に、バンがエレインの頼みのために進んで準備をしていることが驚きだった。
 エレインの依頼内容に、当初バンはこれ以上ないほど嫌そうな顔を見せていた。彼が嫌がるもしかたがない。エレインとの出会いのおかげで、彼は一度はあの館で仕事をしくじっている。同じ場所に、今度はエレインの頼みで再チャレンジすることは、彼の心情的にあまり良いものではないだろう。ゆうべのロクサヌとのトラブルとて、彼の中で尾を引いているのかもしれない。
 いずれにせよ、どんなに気に入らなくとも、一度引き受けた仕事は果たす。そんな彼の妙に義理堅い行動に、エレインはバンの新しい一面を知った。
 スリルと贅沢が好きで、気まぐれに優しくて、仕事には彼なりの矜持がある。エレインの内側で、バンという青年像が複雑さを増して彫り出されていく。手癖の悪さと、裸でうろつくことに羞恥心を感じないところはぜひ改善して欲しいけれど、エレインの心の中の、彼の像の見た目は決して悪くなかった。
「そういえば、あの日は何が狙いだったの?」
「あの日?」
「初めて会った日のこと。どうしてロクサヌの屋敷にいたの?」
「ああ、忘れ物を取りにな」
 バンの声色に、不自然なところはなかった。けれど、エレインの特殊な能力が彼の何気なさを装った言葉の裏を読み取る。エレインの目には、見えないはずの彼の心が映っていた。
 バンと共に過ごすようになって、エレインはあまり積極的に彼の心を読むことをしていない。彼だけではなく、彼の周りを行きかう人々の心さえなるべく覗かないように努めている。妖精王の森での日常と、彼女の行動はまるで逆だった。
 人間の世界にいるのだから、人間の流儀に合わせるべきだ。知らないこと、知っておくべきことがあればバンが説明してくれる。そんな言い訳を自分の中でまかり通らせてしまう不自然さから、エレインは知らず知らずの内に目を逸らしていた。
 そんな彼女の瞳に、バンの意識が鏡となって映し出される。見ようとしなくても見えてしまうほどの、強い想いがそこにあった。
 忘れ物。
 その言葉を発するバンの心の鏡に、浮かんでいたのはひとりの男の姿だった。その彼を、バンは首を大きく傾けて見上げている。バンよりずっと体格が良いのは、見上げる彼が幼いからだろうか。壁を飛び越え、隘路をすり抜ける身のこなしは、今のバンと同じくらい軽い。
 中年らしき男は、バンに向かって笑い、腕を伸ばした。大きな彼の手はバンの頭の上に乗り、色素の薄い髪を乱暴に撫でた。そのまま、彼はバンの前にしゃがみこんで視線を合わせる。人相は決してよくない。それでも、バンを見る垂れた目元は優しかった。
「ちゃんと寝ねぇと大きくなれねぇぞ」
 彼はそう言って、バンを胸に抱き締めた。バンは嬉しそうに、彼を名を呼んだ。
「ジバゴ」
 その名前を、エレインはすでに知っている。知ったのはつい昨日のことだった。
「ほら、お前も寝ろよ。空いてるぜ」
 ゆうべ、そう言ってバンは自分が寝そべったベッドの傍らを叩いてエレインを誘った。宿代に見合う広いベッドは、たとえバンが規格外の長身であってものびのびと横たわることができた。小柄なエレインが彼の脇に収まったとしても、まだ余裕があるほどに。
「一緒に寝るの?」
「俺に床寝しろってか?」
 別にそれでも構わないと、せっかくのベッドから迷わず降りようとするバンをエレインはあわてて止めた。
「そうじゃなくて……!」
 ひとつのベッドで、しかも何の仕切りもなく隣り合って眠る親密さというものは、昨日今日出会ったばかりの男女にはふさわしくない。その感覚は人間とて同じはず、いや人間のほうがずっと敏感だとエレインは聞いていた。エレインにその話をしたのは、兄の親友だ。彼は人間の慣習や文化に強い興味を持っていた。
 話が違う。エレインは、兄の親友にひそかなクレームをつけた。聞いた話と違うのは、彼が間違っていたのか、それともバンがおかしいのか、判断する材料をエレインは持ち合わせていない。
 いずれにせよ、エレインの恥じらいはバンには通じなかった。彼は、他にどうしたらいいんだと目を瞬かせていた。
「眠たくないの」
 かろうじて搾り出した言い訳に、バンは酒精(アルコール)をまきちらして笑う。
「ちゃんと寝ねぇと大きくなれねぇぞ」
「こ、子ども扱いしないで! あなたと違って、私は休めなきゃいけない体がないんだから平気なの」
「へぇ。そんなもんかね」
 添い寝をあっさりと諦めたバンは、再びベッドに大の字になって沈んだ。まぶたが下りると、あっという間に彼の呼吸が深くなる。バンの驚異的な寝つきの良さにほっとしながら、一方でエレインはバンの誘いに胸を高鳴らせていた。
 バンは悪い男だ。盗みはするし、イカサマも平気。行儀も言葉遣いもひどい。けれどときどき、とても優しいところを見せる。つい先ほどの同衾の誘いも、エレインが危惧しなければならないような下心は感じられなかった。
 市場でもそうだった。彼はあそこで、エレインの質問に何でも答えてくれた。どんなささいな事柄にだって、バンはうるさいだとか、面倒だとは言わなかった。彼が「うるせぇな」と口にするのは、エレインが彼の悪事を諌めようとしたときに限られた。だからこそ、ロクサヌの前で彼がエレインとの会話を拒んだことが、小さなショックとして彼女の胸に残っていた。
 何も言っていないのにリンゴを分けてくれたり、ベッドを譲ろうとしてくれたり、無茶な依頼にとりあえずは頷いてくれたり。一文の得にもならないどころか、バンにしてみればただ損なばかりの行為を、彼は実にさりげなくやってみせる。特に今回の、一緒に寝ようというバンの誘いはエレインを動揺させた。彼が引き下がった今も、ないはずの心臓がまだドキドキとしている。
 こんな風に、人間から対等に扱われ、思いやりを向けられたことは初めてだったから。慣れないことに、驚いている。エレインは、自分の胸のざわめきをそう解釈した。
「変な、人間……」
 善人か、悪人か。判断は難しい。エレインがこれまで出逢ってきた人間は、圧倒的に後者が多かった。人間には悪人とはこうあるべきという取り決めでもあるのかと思うくらい、彼らはわかりやすい記号を伴ってエレインの前に現れた。その記号だけなら、バンは間違いなく悪人に類される。
 盗みにイカサマ、追われて逃げて。バンの生き方には危険という名の疫病神がつきまとう。執念深い相手に、高揚感を愛する彼は喧嘩腰で笑っていた。
 兄がいれば、バンは真っ先にエレインの前から排除されたことだろう。だから当初はエレインも警戒した。しかし、今はどうだ。彼と言う人間がますますわからなくなって、むしろ興味を抱き始めてはいないか。
 彼が気まぐれに見せる大きな思いやりは、エレインに妖精界にいたころを思い出させた。兄に代わって聖女となり、ただひとり妖精王の森に留まって以来、もたらされることのなかった他者からの労りが、エレインの乾いた心を濡らした。バンからもたらされる慈しみの雨に触れるたび、エレインの天秤が右へ左へと傾きを大きく変える。
「こんなこと、考えてる場合じゃないのに」
 森はどうしただろう。常に、一番に、そのことを考えていなければいけないはずのエレインの心に、バンはたくみにもぐりこんでいた。
 危険な匂いと、底抜けな優しさ。容易に理解できない、バンという青年の謎。謎は好奇心を呼び、好奇心は好意と親和する。変な人間、でも、嫌いになれない。むしろ、好きになっている気さえする。少なくとも、彼の無邪気な笑顔は好ましかった。そうして心が引寄せられるがまま、エレインは眠るバンにふわふわと忍び寄る。
 こっそりと無防備な寝顔を覗き込もうとしたとたん、何かがエレインめがけて飛んできた。
「ひゃっ!」
 エレインは目をつぶって身をすくませた。飛んできた何かはエレインの体をすり抜けてベッドに落ちる。見ればそれはバンの腕だった。何をするの、と腕の主人を振り返っても、バンの目はぴったりと閉じられたままだった。
「寝相?」
 次は足が飛んできた。さすがにこれはひらりとかわした。逃げなくても怪我はしないが、自分の体をバンの手足がすりぬける様は気味が悪かった。眠っているはずなのに、ひょいひょいと動く手足は、エレインを捕まえる気でもあるのかと思うほど正確に狙いを定めていた。
「なんて寝相の悪さなの……」
 この様子では、朝にはこの広いベッドからも転がり落ちてるんじゃないだろうか。あきれるエレインをよそに、気持ちよく眠るバンからは今度は大きないびきが飛び出してきた。笑うと裂けたように見える大きな口がぱっくりと開いている。
 豪快な寝姿に、エレインは苦笑いするしかなかった。うっかり胸に宿りかけていた、ロマンチックな何かもなりをひそめてしまう。
「もう、変な人間なんだから」
 一度目と違って、二度目のセリフには子どもを見守るような笑みが滲む。こう見えても、エレインはバンの何十倍も生きている。人間に換算したら、二人はきっと母子と言われても差し支えないほどに。
 バンの足がまた動いた。今度はエレインとは反対方向に動いたそれは、ベッド脇に置かれていた彼の荷袋を蹴り飛ばす。
「ほんとにひどい寝相ね」
 急に大きな子どもが出来た気分だと、エレインは苦笑いを浮べる。片付けてやれるわけではないけれど、再びふわりと飛び上がって、エレインは散らばった荷物を見下ろした。地図や布、何に使うかわらかないガラクタがいくつか、袋の口からこぼれ出ている。
 彼はこれらを使って、盗みを働いている。バンの大きな手が、器用に動くさまをエレインは想像する。楽しそうに、かつ手際よく、仕事をしている彼の姿は容易に想像がついた。
 そんな彼の荷物の中で、ひときわ強く、エレインの興味を惹くものがあった。それは古ぼけた、一冊の本だった。
「バンが、読書?」
 エレインは本の傍らに下りて覗き込む。羊皮紙で作られた本はバンによく開かれているのか、折れ目やカケが随所に見られた。本を手に持ち、文字の羅列に目を落とす彼の姿は、盗みを働いている彼を想像するよりはるかに難しい。
 似合わない。らしくない。あのバンが肌身離さず携え、熱心にページをめくる書物というだけで、エレインの好奇心は膨れ上がる。
「ちょっとだけ……」
 本というのが、エレインには都合が良かった。エレインは本の上に手をかざし、小さな風を巻き起こす。この世のものには何一つ触れられないエレインだが、風の力で本のページくらいはめくることができる。厚手の表紙がふわりと浮かび上がり、ついで、乾いた紙がパラパラとめくれた。




  表紙に戻る  


応援ボタンです。web拍手 by FC2
一言で良いから感想をください同盟

*Special Thanks*
原作1~19巻
ノベライズ『セブンデイズ』

                web用写真素材サイト/ミントBlue
 オリジナル小説・HP素材サイト/FOG.