8. バンの忘れ物 後編




 アバディンの監獄は、他の監獄に比べて特別厳重というわけでも、刑罰が苛酷というわけでもない。地方都市にはありふれた、囚人たちの数ばかりが自慢のさびれた牢だった。バンにとっても、幼い頃に一度世話になっただけの場所だ。
 それだけの場所が、今は懐かしくも辛い。どうしたって、ここで出会ったジバゴを思い出さずにはいられない。バンは、彼の過去を知るはずのないロクサヌの措置に臍をかんだ。
 牢獄とはどこもそんなものだが、アバディンも囚人たちの居場所は臭くて汚かった。汚物と湿気で、どんな季節でも空気が重くてかび臭い。そこに人いきれが混じった最悪の匂いにバンは顔をしかめる。すると、ロクサヌのタバコの火傷がひきつるような痛みを訴えた。傷口に臭気が沁みるのか、痛みは強くなる一方だった。
 ロクサヌの命令でこの牢に放り込まれてから、バンはなるべくものを考えないようにしていた。悪臭に耐えるためでもあったし、自分の心の平穏を守るためでもあった。ここでは、何を考えたところで、最後にはジバゴのことに行き着いてしまう。
 だが思考を止めたくても、ロクサヌの手下に好き勝手された体の節々が痛くてじっとしていられない。エレインから魔力を奪った反動でも、全身がだるい。ロクサヌに付けられたタバコの火傷が、とりわけじくじくとバンを苛んでいた。
 できることなら、眠って朝を待ちたかった。眠ればいくらか体力も回復するだろう。けれど、バンに付き添うエレインの存在が、悪臭以上にそれを赦してはくれなかった。
「ごめんなさい、ひどい目に遭わせて」
 ふわりとバンの周囲を浮遊して、エレインは覗き込んでくる。やはりこの場所の悪臭も、透き通った彼女には届かないようだ。彼女の変わらない澄んだ視線を避けるように、バンはそっぽを向いた。
「まさに骨折り損だな」
 しゃべれば、殴られて切った口の中が痛んだ。顔も手も足も、服で見えないところまで、バンの体はどこもかしこも痣だらけだった。
「痛い?」
「そりゃな」
 バンは本気でエレインを責めるつもりはなかった。こうなることは織り込み済みで、彼女の依頼を受けた。想定していた最悪の事態の一歩手前になっただけで、その状況からバンを救おうとした彼女を止めたのもバン自身だ。何より、バンを気遣うエレインの苦しげな表情を前にすれば、あんなはした金じゃ割に合わないと冗談を言う気にもなれなかった。
 バンに魔力を奪われ、反撃する術を失ったエレインは、ロクサヌにオモチャにされるバンをただ見ているしかなかった。本当は逃げ出したかっただろうに、バンとつながれた見えない紐がそれさえも阻む。バンがあのいけ好かない女貴族の手下たちに痛めつけられている間、彼女はその場に留まり続けた。

 私があんなことを頼んだから。
 バンは嫌がっていたのに。
 私のせいだ。

 殴る蹴るの暴行を受けるバンを見つめながら、エレインの思考が流れていくさまをバンは冷静に見つめていた。むしろ、エレインが見つめていてくれたから、バンから目を逸らさなかったから、彼は無駄な抵抗せずにすんだ。無数の暴力が雨あられとふりかかるさなか、急所への一撃を紙一重で避けることに集中できたのだ。
「大丈夫?」
 柔らかな声とともに、エレインの手が掲げられた。牢獄に灯された、申し訳程度のランプの光の中でもエレインはやはり透けて見えた。その見た目どおり、彼女の手はバンの傷をすり抜けてしまう。だがエレインは諦めなかった。市場から離れた屋根の上で、リンゴを取り落としたときからわかっているだろうに、エレインは何度もバンの傷に触れようとした。
 そのうちにまるでパントマイムのように、彼女はバンの傷を撫でるマネをし始めた。小さく細い指に並ぶ、ピンクの花びらのような爪がバンの傷のひとつひとつをなぞっていく。特にロクサヌにタバコを押し付けられた場所を丹念に。それが不思議とあたたかい気がして、痛みが遠のいたようで、バンは驚いた。
 彼女の手からもたらされる、恥ずかしいような、けれどやめてほしくないような、胸をきゅっとつままれる感覚にバンは囚われた。
 傷ついた部分を、精一杯の優しさで慰められる。初めてのその感覚は、バンを大いに戸惑わせた。
「ありがとう、バン」
 唐突な感謝の言葉は、彼女の仲間の羽のことを言っているのだと思った。彼女の小さな口元からこぼれた、あたたかな謝辞をバンは持て余す。
 あのバンが、損得を越えて羽を取り戻すのに協力した。そのことを、彼女は純粋に喜んでいるらしいのはよくわかった。わかるからこそ、バンは彼女の気持ちにどう応えるべきかわからなかった。
「バンは、良い人間なのね」
 ずっと心にあった疑問にようやく答えが出たような、すっきりとした声でエレインはそう告げる。彼女の顔を、バンは直視できなかった。それでも声の響きには、微笑みの粒子がふんだんに含まれている。
「人間の中でも、バンほど良い人は他にいないんじゃないかしら」
 手放しで褒めちぎるエレインに、バンの胸を満たしていたあたたかなものがすっと温度を下げた。
「買いかぶりだ」
「そんなことないわ。あなたは危険も顧みないで、妖精族の羽を人間たちから取り戻す手伝いをしてくれた。とても誇り高い行為よ。妖精族を代表して、私があなたに感謝するのは当然でしょう」
「そんなんじゃねぇって!」
 バンは、エレインの賛辞に(かぶり)を振った。違う、違うのだ。自分はそんな風に、褒められたり、礼を言われるような人間ではないと、バンはエレインの感謝を拒んだ。
「俺も、あのババアと変わらねぇ。妖精族(おまえら)が大嫌いな、ろくでなしな人間のクズだ」
「そんなことない」
「あるんだよ」
 バンがそう確信するのは、あの妖精の羽のおかげだった。
 初めてあの羽を見た夜、バンはエレインと出会っている。もし彼女があの場にいなかったら、自分はどうしていただろう。そのことについてバンが考えたのは、彼女から妖精族の羽にまつわる人間との因縁を聞かされた後になってからだった。
 もちろん、妖精の羽は高値がつく。盗賊の常識だ。バンデットたるバンは、目に飛び込んできたあの額縁を、あの場で盗み出すことを計画しなかったか。額縁に仕掛けられたトラップを解除するため、入念な準備を整えて、再トライする可能性は相当に高かった。
 まんまと手に入れたお宝を、バンはあっさりと売ったに違いない。一番高い値をつけてくれた相手に。相手の身元も、その羽をどうするかなんてことも一切気にすることなく、転がり込んだ大金に歓喜の声を上げただろう。そうしてその金で何をするかなんて、決まっている。
 わかりきったことだ。エレインを巻き込んだあのロクサヌの賭博大会の後のことと、バンは間違いなく同じことをした。良い酒を飲んで、旨い食事をして、高い宿を取って、それでも残った金はギャンブルにつぎ込む。きっと数日で使い果たしていた。違うのは人からすった金を元手にイカサマで稼いだ金か、彼女の仲間の羽を売って手に入れた金かの違いだけだった。どちらにしたって、ろくでもないことこの上ない。バンは生まれて初めて、今日まで自分が繰り返ししてきたことを浅ましいと感じていた。
 エレインから打ち明けられるまで、バンは妖精族の羽がどうやって手に入れられるかを知らなかった。興味もなかった。妖精族の羽にバンが示す関心は、果たしてそれがいくらの金になるか、ただ一点だった。
「あのババアだって、(おんな)じかも知んねぇぜ。あの羽が、お前の仲間を殺して手に入れたものだなんて、全く知らねぇで飾ってたら……」
 あの額縁を作るために、ひとりの妖精が殺されたこと。あの額縁がラウンジにある限り、生まれ変われない妖精がいること。その妖精を想って、胸を痛めるエレインがいること。果たしてそのすべてに、気づくことができる人間がいるだろうか。
「そんな簡単に、良い人間、悪い人間なんて決められるもんじゃないぜ」
 エレインがバンを「良い人間」と評するのは、彼が羽を取り戻す手伝いをしたからだ。彼が手伝ったのは、彼女の打ち明け話に同情したからだ。
 彼女の話をバンが聞くことが出来たのは偶然だった。あの夜、あの場所に、たまたま彼女が彼の前に現れたから、バンは妖精族にまつわるあれそれを知って今に至る。
 善人とは、偶然で作られるのか。なら悪党もそうか。いつどこで降って湧くか知れない偶然に、人は善悪の狭間を行き来するのか。エレインだって、ほんの少し前まではイカサマ博打に興じるバンを蔑視していた。
「それでもバンは良い人間よ。私はあなたを信じるわ」
 エレインが続けた言葉は、バンの地雷を見事に踏み抜いていた。
「俺はジバゴを信じるよ」
 かつてその言葉を渡した相手は、バンを捨てた。父のようだった人、本当の父であれば良いと願った人。そんな人ですら、時に人を裏切る。それすらも偶然の産物というわけだ。
 10年以上昔のロクサヌの屋敷での出来事について、バンはジバゴを恨んだり憎んだり、そんなことは考えないようにしてきた。一度でも深く考えたら、もう止まらなくなってしまう。思考はマイナスの方向へぐいぐいと引っ張られ、悲しみよりも強い絶望がバンの胸を満たすことは目に見えていた。
 だから、決めつけてはいけない。たったひとつの偶然で、善人が悪党に、悪党が善人へと変わるのが世の習いなら、たったひとつの行動で、その人間の善悪を決めてしまうのは愚かなことなのだ。
「バンはもっと、心を開くべきだわ」
 そんなバンの必死の想いを、エレインの言葉が無遠慮に揺さぶってくる。
「てめぇに何がわかる!」
 俺の何が。俺の、これまでの何が。クソみたいな、偶然に、人の心に振り回されてきた今日までが。善意も、悪意も、縋ろうとしたものは片っ端からあやふやになって消えてきたこの世界で、それでもバンは必死に生きてきた。その姿が醜く見えるのなら、きっとその人物はバンよりも幸福なのだろう。
「わかるわけないじゃない」
 声を荒上げてしまったのは、失敗だった。小さな後悔の中で、見上げたエレインはよくわからない顔をしていた。きゅっと眉を顰めて口角を下げたそれは、悲しいのか、それとも怒ったのか。初めて見る彼女の表情に、バンは完全に虚をつかれた。何も言えずにいるうちに、彼女のこわばる唇から、わななく声がこぼれ落ちた。
「わかるわけないわ……、何も話してくれないんだから……」
 人の心は曖昧で、不条理なものだ。心に浮かぶものひとつふたつが読み取れたところで、それが相手の全てを知ることにはならない。手が届きそうで届かない。降り積もったもどかしさにがんじがらめになっているエレインの気持ちを、やはり心を読むことさえできないバンが理解できるはずもなかった。
 わからない。バンは胸の中で首を振った。彼女はバンに何を話せと言うのだろうか。本気で自慢できるようなことも、彼女以外に褒められることも、何一つなかったこのろくでもない男に彼女は何を打ち明けてほしいのか。
 わからないまま、とにかく怒鳴ったことを謝ろうとして、できなくて、口を開けたり閉じたりしているバンの肩を誰かが叩いた。
「ねぇ、君」
 振り返ると、若い男が極端に細い吊り目でバンを見下ろしていた。年頃はバンと同じくらい。糸目の男はバンの傍らにしゃがみこむと、そっと立てた人差し指を口の前にやった。
「ここ、一応牢獄だから静かにね。気の荒い奴もいるし、第一夜中だし。看守だって眠くてイライラしてる。どやされるだけじゃすまないよ」
 糸目の男の言葉で、バンはようやく自分がアバディンの牢獄にいることを思い出した。同時に、体中の痛みも蘇った。火傷のあとがひりひりと痛んだけれど、それ以上に胸が痛い。肋骨は折られなかったはずなのに、胸の奥、心臓に近いあたりがしくしくと痛んでいた。
「それで、誰かいるの?」
 男は首をかしげた。彼はこの獄の悪臭が気にならないのだろうか。呼吸も落ち着いていて、しゃべり方にも乱れがなかった。ここでの暮らしが長いのかとも思ったがそれも違う気がした。
 男はくたびれてはいるものの、きちんとした装いをしていた。ボタンをきっちりと留め、襟や袖の形も崩していない。宿無しになったばかりの男が、それを認めまいと居住まいを正しているのとどこか似ている。
 俺はまだどん底には堕ちていない。そんな無言の主張が聞こえてきそうだ。
 折り目正しい身なりの男は、それからきょときょととバンの後ろのあたりを見やる。彼の仕草は、エレインとやりとりするバンが傍目からどう見えるかを物語っていた。エレインは見えない、声も聞こえない。なら、先ほどの会話はすべてバンのひとり芝居だ。
 いささかバツの悪い思いに頭をかいていると、青年はバンの肩の向こうあたりをひょいと見上げた。彼の視線の先には、エレインがいる。
「誰かさんか知らないけど、寝てる奴もいるからおしゃべりもほどほどにね」
 バンとエレインはそろって目を丸くして、顔を見合わせた。大きな大きな驚きに、ついさっきまでの言い争いも吹っ飛んだ。バンが見えるのかと尋ねると、糸目の男は首を振って否定した。
「じゃ、なんで?」
 バンを頭がおかしいやつだとは思わないのか。見えなくても魑魅魍魎の類を信じるタチなのか。バンの疑問に、男は柔和な笑顔を崩さないまま答えた。
「論理的思考だよ。君、悪魔の証明って知ってる?」
「は?」
「消極的事実は証明しづらいってこと」
「さっぱりわかんねぇ」
「あるものが存在するって証明するより、存在しないって証明するほうがずっと難しいって話さ」
「うあああ、ますますわかんねぇ」
 理屈っぽい男の語り口に、バンは理解する努力より拒絶反応が先に立つ。男はそんなバンをまぁまぁとなだめて続けた。
「君は明らかに誰かと話してた。でも僕にはその誰かさんが見えない。可能性は二つ。君が頭のおかしな奴か、そこに本当に君にしか見えない誰かさんがいるかのどちらかだ。ここまではいい?」
「ああ」
「君が頭のおかしな奴かどうかは話していけばわかる。じゃ、問題になるのは、その誰かさんがいるかだ。たとえば君が本当に頭のおかしな奴だったとしても、それが即、君の話してる誰かさんがいないってことには繋がらない。僕が誰かさんをいないって証明することは、君が誰かさんはいるって証明するよりずっと難しいことなんだよ。だったら『いる』前提を受け入れたほうが、話がスムーズだよね」
「……要は、めんどくせぇから俺に話を合わせてんだな」
「ご名答」
 変な男だった。バンよりずっと学があるらしいが、どうにも話がまわりくどいのが難点だ。佇まいもしゃべり方も、こういう場所にくるタイプとはまるで違う。
「お前、変わってるって言われねぇ?」
「君もそうだろ。せっかくだし、友達になろうか? 袖振り合うのも多生の縁っていうしさ」
「遠慮しとく」
 その調子で、男はペラペラとしゃべり続けた。朝の点呼のこと、食事のこと、新入りのバンが明日からの獄中暮らしに困らないように、懇切丁寧に。声こそ潜めていても、糸目の男はバンよりもずっと口数が多かった。
「生憎、長居するつもりはねーんでな」
 バンはやや強引に、長すぎる男の話を遮った。気合を入れて、膝を立てれば全身が痛む。けれどこらえて立ち上がった。「君って大きいねぇ!」という、彼の感嘆にも取り合わなかった。
 痛む体を引きずって、バンは檻から腕を突き出した。看守不在の詰め所から、鍵の束がバンの手めがけて飛んでくる。「強奪」(スナッチ)の魔力を前に糸目の男が唖然としているうちに、バンは牢の鍵を開ける。出入り口をくぐりかけたところで、バンはようやく青年を振りかえった。
「お前も来るか?」
 バンの誘いに、なぜか糸目の男は首を振った。代わりに、手を差し出してバンから牢の鍵を引き受ける。大事そうに、手のひらに受け止めたもの見下ろす姿は奇妙の一言に尽きた。
「変な野郎だぜ」
「そこはお互い様」
「バン、看守がこっちに来るわ」
 エレインに促され、バンは今度こそ牢を出た。糸目の男が後をついてくる気配はない。看守と入れ違うように、彼らの詰め所の前を密かに通り過ぎる。その間際、バンは忍んでいた足を止めた。
「バン?」
 急にぴたりと動かなくなったバンに、エレインが呼びかける。しかし、彼女の声はバンの耳に届かなかった。彼の意識は彼の目が捕らえたものに奪われていて、彼はその瞬間呼吸さえ忘れていた。
 詰め所の奥の壁、鍵がぶら下がっていた場所のすぐ隣には、監房の番号とそこに収監された囚人の名札が並んでいる。入所したばかりのバンに名札はまだなく、彼と同じ房にかけられた札は一枚きりだ。そのたった一枚の札に綴られた文字に、バンの全神経が縫いとめられる。

 「Therion(セリオン)

 その名を、バンは見過ごすわけにはいかない。父と慕ったジバゴの、実の息子の名前だった。





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