7. バンの忘れ物 前編

※軽いですが暴力描写があります。



 やはり、罠だった。
 バンが妖精の羽が入った額縁を壁から外すや否や、ブツリと裏で何かが切れる嫌な感触が手に伝わった。一秒後、けたたましい鐘の音が館中に鳴り響き、物々しい足音が一斉にラウンジへと押し寄せた。
 ずらりと湧いた見張り番や用心棒たちに、バンはまたたくまに取り囲まれる。抱えた額縁が動かぬ証拠。槍や棍棒を突きつけてくる彼らに、言い訳を考える努力すら無意味だった。
「薄汚いコソ泥めっ」
「くたばっちまえ!」
 罵声が雨あられと降り注ぐ。あれよあれよという間に、バンと額縁、そして彼らには見えないエレインがラウンジから続くバルコニーまで追い詰められた。下の庭にも、すでに何人もの見張りが現れている。皆一様に武器を持ち、血走った目をバンに向けていた。彼らが飛び掛ってこないのは、バンの手中にある雇い主のコレクションを傷つけないためであって、穏便に済ませようなんて思いやりはない。
「池に捨てて!」
 袋のネズミを嘲る言葉が飛び交う中、エレインの声だけがくっきりとした輪郭をもってバンの耳に届いた。澄んだ良い声だと聞き惚れる間もなく、彼女からの突然の指示に、バンは反射的に背後の庭の池を見下ろす。一面の塀の足元を覆うだけあって、池は大きく狙いは楽だ。あの距離とバンの膂力なら、たとえ大物の額縁であろうとも、見張りたちの頭上を越えて、充分に池に沈めることができるだろう。
 しかし、それでいいのか。バンは迷った。いくら興味のないことは忘れっぽい自覚があっても、エレインの話はまだしっかりとバンの頭に残っている。彼女はこの羽を持ち主に返したかったはずだ。
 逡巡で動けずにいるバンの背を押すように、当の彼女の声が続く。
「妖精族の羽は水に溶けるの! お願い、早く!」
 今夜は妖精族の新情報が満載だ。バンはエレインの話に再び目を丸くした。
 妖精族の遺体は腐らない。だから、特別な防腐処置をされずとも、200年前の亡骸が価値を持つのだ。当然、彼らの肉体から引きがはした羽も腐敗とは無縁だった。
 そんな彼らによる死者との別れは、土葬でも火葬でもなく、水葬を常にしていた。とりわけ、エレインのいた妖精王の森では、死んだ仲間の亡骸は生命(いのち)の泉から溢れた水に流される決まりになっていた。
 大きな葉に、花びらとともにくるまれた骸は、水に触れた瞬間溶けて泉と同化する。泉と森の木々を通じて、彼らの溶けた肉体は時間をかけて妖精界にそびえる神樹の元にたどり着き、新たな命として生まれ変わる。エレインたち妖精族の間では、そう永く信じられてきた。
 エレインの望みは、ロクサヌの手から羽を取り戻すこと。彼女はバンが盗んだ羽を妖精王の森に持ち帰り、生命(いのち)の泉がたたえた水に流してやるつもりだった。だが、肝心のバンが包囲された状況ではそれは叶わない。ならせめて、人間の手の届かないところへ。二度と仲間の肉体が、人間によって辱められることのないように。死者を送り出す先として、彼女はロクサヌの館の池で手を打つことにした。
 池の水は決して生命(いのち)の泉と同じではない。けれど、水は水だ。そこに溶けた羽は蒸気となって空に舞い上がり、雲となり、風に流され雨となって、長い長い歳月の果てに、いつの日か妖精王の森に降り注ぐ。人間の慰みものとして壁に飾られ続けるより、それはずっと希望の残る未来だった。
「だからお願い! バン!」
 エレインの呼び声が、バンのためらいの鎖を断ち切った。
「ああ、わかったぜ、エレイン。今夜だけはてめぇの言いなりになってやる!」
 お前は俺の雇い主だからな。
 バンの突然の大音声に、取り囲んでいた見張りたちがわずかにひるんだ。その隙に、エレインの言葉を信じて、バンは額縁を持った両腕を大きく振り上げる。彼の鍛えられた筋肉が盛り上がり、しなる腕の先から妖精の羽は飛び出した。
 美しい羽を抱いた額縁は、くるくると回転しながら大きく弧を描いてバルコニーから宙へと舞った。満天の星空の下、幾人もの見張りの頭上を飛び越えて、それは池の中央に水しぶきを高く上げて落ちた。落水の勢いで深く沈んだ額縁は、浮力の反動で再び水面から顔を出す。しかしすでに水が入り込んでいたのか、あれほど見事な姿をしていた羽は大きく形を歪めていた。
「き、きき貴様っ、なんてことを!」
「引き上げろ、早く引き上げるんだ!」
「ロクサヌ様をお呼びしろ!」
 見張り番たちの叫び声が、夜更けのロクサヌの館に散る。池に腕を伸ばす者がいれば、飛び込む者まで現れた。だがその甲斐もなく、ようやく拾い上げられた額縁の内側はもぬけの殻。おそらくロクサヌが大枚をはたいて手に入れたであろう妖精の羽は、すっかり水に溶けてしまっていた。
「あの羽の妖精も、これできっと生まれ変われる。時間はかかるでしょうけど」
 喧騒の中で、傍らによりそったエレインは囁く。穏やかな声と柔らかな微笑みに、バンの意識は奪われていた。顔も知らない妖精族が生まれ変われるかは興味がない。けれど、彼女が喜ぶのならそれで良かったのだとバンは頷く。
「このコソ泥風情が!」
 だからバンは、罵声とともに振り下ろされる暴力をまともに受ける失態を演じた。棍棒は、バンの後頭部をしたたかに殴りつけた。痛みよりも衝撃が強く、頭がくらりとして、立っていられずにバンはその場で膝をつく。
「バン!」
「やめろ、エレイン……!」
「だけど!」
 とっさに見張りに向けて風を放とうとしたエレインを、バンは止める。ここで彼女が彼らを吹き飛ばしたとしても、バンがこのざまでは逃げ切れない。頭に受けた打撃に視界がぐらぐらと揺れる中、バンをかばうようにエレインが見張りたちに立ちふさがるのが見えた。当然、彼らの目に彼女の姿は映らない。
「バンは動かないで、ここは私が!」
 棍棒や槍の前にわが身を差し出すエレインに恐れはなかった。バンの制止にも無視して、彼女の手のひらは対峙する「敵」に向けられいてた。
「バカっ……、やめろってんだ……!」
 対するバンは視界を揺らしながら、エレインの背に右手をつきつけた。バンを守ろうとする彼女に、「強奪」(スナッチ)を繰り出せば、ずるりと強引に彼女の魔力がバンに奪われる。これで当分は、エレインは風の力を使えない。
 バンのまさかの行動に、エレインが驚いてこちらを振り返った。信じられない。エレインの顔に書かれた心の声に、バンは冷や汗を流したまま口角を上げた。
「お前は……、手出しするんじゃねぇ……」
「でも、このままじゃバンが!」
 エレインの案じたとおり、バンはたちまち拘束された。後ろ手に縛り付けられる間にも、無抵抗なバンに不必要な拳や蹴りが飛んでくる。バンが痛めつけられるたびに、エレインがバン以外誰にも聞こえない悲鳴を上げた。それでも、バンは彼女が手を出すことは赦さなかった。
 これでいい。バンの心はそう呟く。
 仲間のために必死に羽を取り戻そうとしていた彼女が、人間と同じように誰かを傷つけるのは見たくなかった。たとえそれが誰かを守るためであっても、たとえその誰かがバンであってもだ。だからバンは、決して「強奪」(スナッチ)の魔力を解くことなく、彼女に風の力を返さなかった。
 そうしてバンが滅多打ちにされていると、報せを聞いたロクサヌが部下を両脇に従えてようやく姿を現した。相変わらず、顔の半分以上をヴェールで多い、夜陰にも目に痛い赤いローブをまとっていた。
 寝入りばなをたたき起こされた、老貴族は不機嫌だった。
「二日で二度よ。よっぽどのご縁ね、アンラッキーボーイ」
「俺は三度目だな。ガキのころ、あんたに売られかけた」
「下の毛も生えないボウヤの頃に会いたかったわ。いたぶりがいがありそうなのに」
「ケッ。皺くちゃババアの夜伽なんざ、死んでもごめんだね」
 圧倒的に不利な状況にもかかわらず、バンは挑発的な態度を崩さなかった。手下に差し出されたタバコを吸って、一息ついたロクサヌは不敵に笑う。
「夜伽には役者不足だけれど、そのバカさ加減と度胸は好きよ、アンラッキーボーイ。それに、あなたには感謝しなくちゃね」
 ロクサヌの言葉に、バンの眉が怪訝にひそめられる。相手を手のひらの上で転がす快感に、ロクサヌは口元だけが覗く笑みを深くした。
「ゆうべは勉強になったわ。イカサマボウヤを見つけても、逃げられてしまっては意味がない」
「……なるほど、てめぇの魔力か」
 バンの速い反応に、ロクサヌは吸ったタバコの煙を感嘆と共に吐き出す。まだ少し残っていた、頭の眠気が完全に消えた。ただの手癖の悪いガキだと思っていた男が、ロクサヌの老いた目には金の卵を生むガチョウに見えてくる。
「頭の回転も悪くなさそう。ますます好きよ、アンラッキーボーイ」
「俺としたことが抜かったぜ、この屋敷全体に『胴元』(ブックメーカー)の魔力を張り巡らせやがったな。警報も、見張りもオマケってわけだ」
 バンの洞察は正しかった。この屋敷に正門以外から侵入した者は、塀を越えられない確率100%。それが事前にロクサヌが仕込んでおいた、正真正銘のトラップだった。
「何をどう盗んだところで、逃げおおせなければ意味がないでしょう?」
「たいしたイカサマババァだぜ。でもどうせなら、コレクションを壊されねぇ確率にしとくべきだったな」
「盗みはギャンブルよ、アンラッキーボーイ」
 バンの罵りを遮るように、ロクサヌは言った。ゆっくりと彼の周囲を歩き始める。毛の長い絨毯の上に、ヒールの跡を残すようにゆっくりと、彼を中心にした円を描きながらロクサヌは捕らえた獲物をいたぶりはじめた。
「根っからの勝負師なあなたなら、ギャンブルの鉄則を知ってるわよね。『客は胴元には勝てない』。それがこの世のあらゆる賭博場に通じる、唯一無二の絶対の掟。その掟を、ゆうべのあなたは破ろうとした。赦しがたい大罪だわ」
 ロクサヌは、バン自身に興味はなかった。だが、彼の持つ魔力には強い関心を示している。ダイス勝負の最後に見せた、彼の魔力の波動を感じ取っていたのはエレインだけではなかった。もちろん、勝負をご破算にしたあの一陣の風についても、彼が時おり口にするエレインという女の名についても、ロクサヌは問いただしたい。問題のエレインが、すぐそばで二人のやりとりを見つめていることを彼女は知らなかった。
「胴元として、ギャンブルの治安を守る者として、アタシはあなたを罰しなければいけない。でもアタシはあなたを気に入ってしまった。だってとっても使えそうなんだもの。困ったわ。どうしましょう」
 芝居がかったロクサヌの口ぶり、仕草に、バンは鼻白む。彼女が本心から困っているわけではないことは明らかだ。ここからの話も、バンにはあくびが出るほど退屈な展開になるだろう。
「私の下で仕事をしない? 悪いようにはしないよ」
 ホラ、来た。思った通りと、バンは胸の内でロクサヌを嘲った。権力者はいつもそうだ。自分の力を見せつけ、相手を支配したがる。魔力でカタがつくところに、物々しい警報や人手を繰り出すのもその手法の一つだった。
「あなたに足りないものは運よ。アンラッキーボーイ」
 悦に入ってしゃべる女貴族は、バンの胸中に気づかない。力を見せれば屈服する。彼女がそう考えるのは、彼女自身がそうだからだ。たとえばここでバンが捨て身で彼女に襲いかかれば、彼女はおそれおののくだろう。己の権力を絶対視する者が、単純な暴力に怯える姿を想像してバンは溜飲を下げる。逃げる機会でも、なんでもいい。彼女に一泡吹かせるチャンスを、バンは待っていた。
 そんな中で、バンはちらりとロクサヌから目を逸らした。少し離れたところでエレインが、二人の会話に神妙な様子で聞き入っている。その表情には不安の色が濃い。バンがこれ以上傷つけられることを案じているのか、それともロクサヌの誘いに乗ることを恐れているのか。どちらもいらない心配だと、バンはエレインに伝える方法を探しあぐねた。
 その間にも、ロクサヌの赤いローブがひらひらと舞って、エレインを見つめるバンの視界の邪魔をする。好かれたいのも、近づかれたいのも、ロクサヌはバンの好みとまるで違った。
 どうせ自分から動けないなら、近くにいてくれるのはエレインがいい。同じ年上の女でも、彼女の言うことなら喜んで聞ける。この差は一体何なのだろう。じっくり考える暇を、小うるさい老貴族は与えてくれなかった。
「アタシがあなたを補ってあげる。いい相棒になれるわ」
「てめぇが欲しいのは愛玩動物(ペット)だろ」
「あなたは特別に可愛がってあげてよ?」
 野良犬には餌と首輪を。ロクサヌ手ずから鞭をふるって、後は好きなように調教できる。それが女貴族の流儀であり、嗜好だった。この若く自尊心の強い男が、ロクサヌに膝をついて餌を求める。屈辱に歪んだ顔で、彼が彼女の足を舐める。嗜虐的な妄想にロクサヌの背筋が興奮にぞくぞくとした。
 野良犬というよりは、血気盛んな狐といった風情のバンを見下ろして、ロクサヌは自分の優位を疑わない。
「お返事は? 野狐ちゃん」
 バンの返事は彼女めがけて吐きつけた唾だった。バンの唾は、顔のほとんどを覆うベールのわずかな隙間を縫って、彼女に届いた。ロクサヌは、不用意に顔を近づけすぎたのだ。
「年寄りは物忘れがひでぇな」
 夜のロクサヌ邸のバルコニーで、月のない夜陰にバンの紅い瞳が暗く光った。
「言ったろ? 皺くちゃババァの相手なんざ反吐が出んだよ」
 ドスの効いたバンの声には、ロクサヌの周囲にいる見張りたちすら肝を冷やした。この言葉に安堵する者がいるとしたら、この場でただひとりエレインだけだろう。事実、バンはロクサヌの向こうにいる、小さな彼女に語りかけ、彼女の不安を取り除こうとしていた。
 薄汚い狐の思わぬ反撃に、ロクサヌは頬を引きつらせる。それでも貴族のプライドから、彼女は嫣然と微笑んでみせた。そして衆目の前で宣言する。自分の言いなりにならない愛玩動物(ペット)なら、彼女は欲しくなかった。
「このアンラッキーボーイをアバディンの牢へ!」
 ロクサヌの言葉に、バンは彼女の前で初めて顔色を変えた。バンの青ざめた様子に、ロクサヌは自分の優位な立場を取り戻して彼を見下ろした。
「あそこの長官とはお友達なのよ。あなたの始末はあとでゆっくり決めてあげる」
 ロクサヌは、吸いかけのタバコをバンの痣と擦り傷だらけの頬に押し付けた。じゅっと肉が焦げる音と、バンの呻き声。エレインは見ていられず、手で顔を覆って悲鳴を堪えた。




※「妖精族の遺体は水に溶ける」「妖精族は水葬」は当連載限定のオリジナル設定です。

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