9. ノスタルジア 前編
宿の部屋には窓から戻った。一等室に泊まっている客が、全身痣だらけで帰ってきたとなれば主人の疑惑を招くからだ。
入ってきたばかりの窓枠に腰を下ろし、バンはようやく一息ついた。あれほどはしゃいだ宿のベッドも色あせて見える。疲れた体でベッドに倒れこむこともなく、バンはあの監獄でのことを考え続けていた。頭はまだ、自分が見たものの衝撃から脱し切れていない。
「お前と同じくらいのガキんちょがひとりな」
息子がいるのか。バンの問いかけに、在りし日のジバゴはそう応えた。名前はセリオン。人見知りだが優しい子だとジバゴは言い、同じ口でバンも息子だと付け加えた。
バンが看守の詰め所で見たものを信じるのなら、あの糸目の男もセリオンだった。年の頃も、おそらくバンとそう変わらない。
難しい顔をしたまま、黙り込んだバンをエレインは気遣わしげに見ている。彼女の視線には気づいていたが、今のバンに相手をしてやれる余裕はなかった。
「騒がしいな……」
窓の外が騒々しい。地平が白み始めた時刻にしてはおかしかった。バンが窓を振り返ると、陽も昇っていないのに空が赤い。
「バン、あれって火事?」
並んで窓をのぞきこんできた、エレインの言葉にバンははっとする。あれは火事の火だ。しかもかなり大きい。空を染める炎と煙の根っこを探すと、先ほどまでバンのいた、そしてまだセリオンの残るアバディンの監獄へと続いていた。
糸目の男の幻影が、バンの脳裏をちらつく。
「クソったれ!」
悪態と共に、バンは再び窓から外に飛び出した。宿の前の通りに着地すると、監獄に向かって元来た道をひた走る。体の節々を苛んでいた、痛みなど吹っ飛んでいた。
バンは前を見た。まだ夜に沈む家々の向こうで、炎は大きく立ち上り、魔物のように空に手を伸ばしている。その上でもうもうと広がる黒い煙は、分厚い雲となって朝が来るのを拒んでいた。
セリオン……!
あの炎と煙の下に、セリオンがいる。ジバゴの息子かもしれない男。遠い昔にバンを見捨てて以来、消息不明となったジバゴへと続く、彼は唯ひとつの手がかりだ。
バンは懸命に走った。走りながら、あのセリオンが本当にジバゴの息子である可能性がどのくらいかと考えた。同名の別人。ありうる。極端な吊り目のセリオンに比べ、ジバゴはどちらかといえば垂れ目がちの顔をしていた。体格だって、似ても似つかない。セリオンはひょろ長い葦のような奴だが、ジバゴは逞しくも身軽な動きをする野生の獣みたいな男だった。言葉遣いだって、理屈っぽいところだって、あのセリオンは何一つ、ジバゴとの血のつながりを感じさせなかった。
だからどうした!
「俺だって親父似じゃねぇよ!」
叫ぶと同時に、バンは周囲の制止の手を振り切って火事場に飛び込んだ。水を被る余裕も、冷静さもなかった。燃え盛る炎がすぐにバンの髪を焦がし、建物に充満した熱気が肌を焼いた。煙が目に沁みて、前がよく見えない。
「セリオン!」
バンは叫んだ。声は、アバディンの牢獄を食いちぎる炎の轟音にかき消される。
「セリオン、どこだ! 返事をしろ!」
大声を張り上げようと息を吸うと、煙が喉をさす。大きくむせながら、それでもバンはバカの一つ覚えのようにセリオンの名を呼び続けた。
「セリオン!」
セリオンを呼ぶ、バンの心はジバゴの影を映し、今はもういない彼の名も叫んでいた。
「セリオン!」
ジバゴ!
セリオン、ジバゴ、セリオン、ジバゴ、セリオン……。
「セリ、オ……ン……! ゲホッ」
喉が痛い。頭が重い。体中が熱い。バンは次第に、自分があの糸目の男を捜しているのか、それともいなくなってしまったジバゴを探しているのか、わからなくなっていった。
息が苦しくて、目が痛くて、こんなつらい場所から早く逃げ出したくてたまらなかった。それなのに、見つからない。彼がどこにも。どこだ、どこにいる。どっちを向いても、何度叫んでも、彼が、ジバゴが、どうしても見つけられない。
どこに行ったんだよ、ジバゴ。
俺はここだよ。
ずっとアンタを探してたんだ。
額から流れた汗が目に沁みる。滲んだ視界で、炎の向こうに、見慣れた背中が映っていた。陽炎に揺れる人影は、バンと同じ黄色いジャケットを身につけている。探していた背中に、バンは煙に目をかすませながらも腕を伸ばした。
「ジバゴ……」
「バン!」
ジバゴの幻影を追って、炎に飛び込みかけたバンを、引き止めたのはエレインの声だった。すぐさま大きな風が吹いて、炎の海がジバゴの幻ごとかき消される。新鮮な空気に喉の痛みが和らぎ、ぼんやりとしていた頭が動き出す。振り返れば、思ったとおり、エレインが心配そうな顔でそこにいた。
「エレイン……」
半透明な、この世のものとは思えない彼女に、バンは現実を思い出す。ジバゴじゃない。自分が今、探さなければいけないのはセリオンだ。
「あの人を探すの?」
「ああ、手伝ってくれ」
エレインは一も二もなく頷いてくれた。炎に対抗できる風の力はもちろん、肉体を持たず、現世のものの影響受けない彼女にバンは感謝した。少なくとも、彼女が炎に飲まれる危険は考慮しなくていい。
「俺たちのいた房にいくぞ」
だがそううまくことは運ばなかった。バンの行く手を遮る炎が、進めば進むほど大きくなる。あと少しというところで、もはやエレインの風では逆効果にしかならないほどの炎に足止めされてしまった。
「私が行くわ」
これ以上進めないバンに代わって、エレインが進めるかぎり進もうとする。20ヤードの限界ギリギリで、エレインの声が届いた。
「バン、いたわ! 倒れてる!」
報せを聞くや否や、炎の壁を強行突破したバンは、服を焦がしながらもエレインの元にたどり着く。彼女の指差す先では、確かにセリオンが床に倒れこんでいた。元いた監房ではなく、なぜか彼は隣の房に移動している。
セリオンはバンから牢の鍵を預かっていたはずだ。いつでも逃げ出せたくせに、彼はそんなところで何をしていたのか。しかし今は、考えているときではなかった。
「どうするの? 私の風じゃ、もう無理よ」
セリオンの周囲はすでに火が取り囲んでいる。何度呼んでも、セリオンは意識を取り戻さなかった。
汗もかいた端から乾いてしまうこの熱さの中で、果たして彼はまだ生きているのか。炎の音に混じって、建物が大きく軋む気配がする。一刻も早く、彼をこちら側に引っ張らなければ。
「下がってろ、エレイン」
バンはセリオンに向けて手をかざした。火の粉が飛び交う中、息を整えて、集中する。人間ひとり、重さにしておよそ130ポンド、ロクサヌのダイスや牢獄の鍵とはワケが違う。狙いを定める武器も道具も何もなしに、これだけの重さ、複雑な形をしたものを強奪するのは初めての経験だった。
うまくできる自信はなかった。けれど、やらなければセリオンは救えない。
「腕がもげても恨むなよ、セリオン」
返事は期待しない。一呼吸おいて、バンはセリオンめがけて獲物狩りを繰り出した。
炎から奪い取ったセリオンには、まだ息があった。意識はないものの、火傷もそれ以外の外傷もほとんどないとわかると、バンは人気のない場所に移って、セリオンの意識が戻るのを待った。
彼が目を覚まして、バンが真っ先に尋ねたことは、やはりジバゴとの関係だった。
「ご期待に添えなくて悪いけれど、僕の父はジバゴなんて名前じゃないな。盗賊やスリとも無縁さ。盗みなんて生まれてこの方したこともないよ」
ジバゴと縁もゆかりもないセリオンは、バンの話に申し訳なさそうに首を振った。
「そんな品行方正野郎が、なんで牢獄にいたんだよ」
バンの疑問に、セリオンの細い笑みが深くなる。彼は、初めて口を利いたときと同じように唇の前に指を立ててみせた。
「復讐。あそこの囚人に、殺しても飽きたらない奴がいてね」
だからセリオンは、バンの脱獄に同行しなかった。バンから鍵だけを預かった理由も同じだった。
「鍵も手に入ったし、積年の恨みを晴らしに行こうかって矢先に火事が起きたんだから、びっくりしたよね」
これで、バンたちが火に囲まれたセリオンを見つけたとき、彼が隣の監房にいたことの説明もついた。その房にいたのが、セリオンの復讐相手だった。あの場にセリオン以外の誰かがいたか、バンは思い出せない。
「あいつは焼け死んだよ。そもそもあいつの火の不始末が火事の原因だったんだから」
「火元の傍にいて、よく火に飲まれなかったな」
「幸運だよね。火の回りがたまたま僕を避けたんだ」
セリオンの説明に、バンは黙った。運のいい男は、バンの視線になおも笑う。
「信じてない? 僕がやったと思ってる? でも本当だよ。僕はやってない。復讐なんてやめようって思ったところだったんだ」
バンはエレインを振り返った。彼女が頷く。セリオンは嘘をついていない。彼女がそう認めるなら、バンも疑う気が失せるのが不思議だった。
「やめる気だったのか、復讐」
「君のおかげさ」
バンは眉を顰めた。セリオンの復讐を思いとどまらせる何かをした覚えがない。そもそも監房で交わした彼との会話自体、わずかなものだったと記憶している。バンの怪訝な表情に、セリオンはまた笑った。
「君が『誰かさん』に話してたことだよ」
そんな簡単に、良い人間、悪い人間なんて決められるものじゃない。エレインに向けた言葉は、知らず知らずの内にセリオンの選択を変えていた。
「グッと来たね。あいつの前に立ったとき、君のその言葉を思い出した。僕にとっては不倶戴天の仇敵でも、別の誰かにとってはたったひとりの家族かもしれない、将来を誓った恋人かもしれない。そう思ったらもう、何もできなくて……」
そうしてセリオンが復讐を諦めたとき、炎がかつての復讐相手を飲み込んだ。全身を赤く燃やし、苦しみながら死んでいく相手をセリオンは呆然と見下ろしていた。
「僕は一体何のために、こいつを追っかけてたんだろう。なんのために牢獄にまで入ったんだろう。それとも、人殺しにならずに幸運だったのかな」
復讐相手の死を語る、セリオンの顔に積年の恨みを晴らしたすがすがしさはなかった。ようやく赦せた相手が、あっけなく死んでしまったことへの虚しさに、彼は途方にくれているようだった。
「こういうのって、何て言えば良いんだろう。人間万事塞翁が馬? 禍福はあざなえる縄の如し? ああ、それとも天網恢恢疎にしてもらさずのほうがいいのかな?」
相変わらず、セリオンの話は衒学的に過ぎる。もともと知識をひけらかすのがすきなのかもしれない。牢獄にいるよりも、教鞭をとっているほうがずっと似合いそうだった。
「いろいろ考えながらさ、炎の中で死んでいくあいつを見てたら、うっかり煙を吸って倒れちゃって。そうしたら、君が来てくれた」
セリオンの説明に、バンは今度こそ彼への嫌疑を捨てることにした。セリオンはやっていない。疑いを捨てると同時に、安堵が全身を支配して肩の力が抜けていく。どうして自分が、彼が罪に染まることを嫌がるのかはよくわからない。ジバゴの息子と同じ名の男に、セリオンの名を汚して欲しくなかっただけかもしれない。
「盗みもしたことのねぇやつが、どうやって牢獄に入ったんだ?」
大きな疑問が片付けば、小さな疑問が気になりだすもので。バンの質問に、セリオンは肩をすくめた。
「たいしたことじゃないよ。まずその辺を歩いてた騎士さんを馬鹿にしてさ、尋問されてるときにちょっと暴れてやっただけ。パンチ一発で拘留10日間だって」
「何発ブチこんだ?」
「2発。僕みたいなへなちょこじゃ、それがせいぜいさ」
腕はへなちょこでも、セリオンは利口だった。学もある。復讐に道を外さなければ、今頃どこかで学者になっていたかもしれない。少なくとも、バンがこうして馴れ馴れしく口を聞ける相手ではなかったことは確かだ。
「これからどうすんだ。仇も牢獄も燃えちまった。てめぇの拘留記録も焼けちまってんじゃねぇか? ばっくれるなら今のうちだぜ」
「そうだね。君に拾われた命だし、粗末にはできないね。故郷に戻って一からやり直すよ」
「故郷はどこだよ」
「キャメロットって知ってる? ここらずっと南の小国なんだけど、良い所だよ」
「また随分遠いとっから来たな」
「おかげで帰るのも一苦労さ」
キャメロットを出てアバディンまでたどり着くまでの道程を思い出して、セリオンは苦笑いを浮べる。きっと生半可な苦労ではなかったし、引き返すにも先立つものがいるだろう。
「ちょっとここで待ってろ」
「バン?」
「一刻もかかんねぇよ。動くなよ、セリオン」
※セリオンはジバゴの息子と同名の別人、当連載限定のオリジナルキャラクターです。