2. 妖精と盗賊 後編




 昼を前にした市場には、まだ多くの人が残っていた。アバディンの大通りで開かれる朝市は、その名の通り日の出と共に開かれ、通りの両脇にずらりと並んだ出店と買い物客でごったがえす。その朝一番に比べれば、ぐっと歩きやすくなった人混みにもエレインは目を丸くした。カラフルな、出店のテントやシェードが目にも鮮やかだった。
「人間って、こんなにいっぱいいるのね」
「いいねぇ。そのセリフは妖精っぽい」
 エレインの素直な感想に、傍らを歩く賊の青年は笑う。人が体をすり抜けていくエレインと違って、少し歩けば誰かと肩をぶつける人通りの中でも、青年は頭二つは飛び出た大きな体で、たくみに衝突を避けていた。背が高いと遠目が利いて避けやすい、おまけに大きな図体は相手のほうから避けてくれると、バンは子どものようにエレインの傍らで得意がった。
「妖精王の森の近くにゃ、人間はいねぇのかよ。嬢ちゃん」
「小さな集落がいくつかあるわ。だけどそこに住む人たちは、森に深入りしてこないもの。人間を大勢見る機会なんて、軍隊や蛮族の襲撃のときくらいのものね」
 生命(いのち)の泉を狙って、はたまた人間の世界では高値がつくという妖精族の羽を狩りに、彼らはしばしば森に引かれた人間と妖精族の境界を侵犯した。彼らの血走った目を思い出すと、エレインの心は曇らずにはいられない。
 数え切れないほど膨れ上がった人間の群れは、妖精族にとって忌むべきものだ。不老長寿に、億万長者、胸に抱いた欲を隠そうともせず襲ってくる彼らを、聖女たるエレインは幾度となく退けてきた。
 妖精族は争いを好まない。彼女もその(さが)にしたがって、人間に警告をし、説得を繰り返した。けれど、一度たりとも血を見ずに済ませられたことはなかった。残るのは、虚しさと悲しみ、そして夥しい数の死体が山になった酸鼻極まる光景だ。700年、果てることのない応酬に、ついにはエレインの心まで息絶えようとしていた。
 それがどう言うことだろう。今、青年の傍らで、エレインが見ているものはまるで違った。確かにそこは騒々しかった。誰もが何かを欲していた。しかし、行きかう人々の顔に浮かんでいたのは、眩しい笑顔だった。飛び交う声にも、朗らかな響きがあった。
 ぐったりと力尽きようとしていたはずの、エレインの心が頭をもたげる。
「ここは何なの? 皆、何をしてるの?」
「ホントに何も知らねぇんだな、嬢ちゃん」
 戸惑いながらも瞳を輝かせるエレインに、賊の青年はあきれながらも優しく笑った。険のある顔つきが柔らかく溶けてしまうと、彼もなかなかの美青年に見える。市場の明るい雰囲気に感化されたのか、エレインに向ける言葉遣いさえ、幾分の軟化がうかがえた。
「子どもじゃないわ、エレインよ」
 気安くなった分だけ、放置できない青年のセリフにエレインは頬を膨らませる。バンは少し驚いたように目を丸くした。その顔がますます幼く、彼を端整に見せた。
「そうか。なら、エレイン。俺はバンだ。バンデット・バンで通ってる」
「そのままね」
 二人は顔を見合わせて、同時に吹き出した。あぜ道の上でしていた意地の張り合いが、嘘のような笑顔だった。賑やかな市場の風景に、そうして二人は溶け込んでいった。
「バンでいいからな」
「わかったわ、バン」
 バンはエレインに、市場についてさまざまなことを説明してくれた。週末の朝に必ず開かれること、アバディン周辺でここより大きな市場はないこと、食べ物から機械仕掛けの部品にいたるまで、金貨十枚以下の品ならこの市場で手に入らないものはなかった。
「皆がお店の人に渡している、丸いものは何なの?」
「そりゃ銀貨だな。コイン。金だよ」
 妖精族には市場以上に慣れない概念に、エレインは眉を顰めた。バンが口にした「金」という言葉には、不吉なイメージが付きまとう。人間は「あれ」欲しさに同族同士で争い、種族の異なる者たちを傷つける。
「あんなもの、どうするの?」
「欲しいものがありゃ、アレと交換するんだ。金がなきゃ、話になんねぇ」
「お店の人は? あんなもの集めて。人間はお金を食べるの?」
 エレインの素朴な、しかし真摯な疑問にバンは短く吹き出した。
「食わねぇよ。店の奴らも、金で欲しいものを買うんだ。それだけじゃねぇ、人になんかしてもらいてぇときも金を払う。それでメシを買う、服を買う、寝る場所を確保する。腹が減った奴、服が欲しい奴、安心して寝たい奴らは誰かのために働いて、金を貰う。そーゆー風にできてんだよ」
 バンの話は、ある程度はエレインにも理解できた。人間は数が多くて欲深いから、たくさんの人がたくさんのものを欲しがって、売りたい人と買いたい人の間でやりとりも複雑になる。お金はきっと、そのやりとりを簡単にしてくれる。だからこれだけたくさんの人でごったがえしても、市場は混乱せずに済んでいるのだ。そこまではわかる、そこまでは。
 人間が金目当てに妖精族を傷つけるのはなぜなのか。妖精を殺めてまで、羽を奪い、金を得ようとするのはなぜなのか。バンの言葉通り、金が労働の対価、欲しいものを手に入れる道具だというのなら、エレインの知る人間の金への執着は歪んでいた。
 エレインはバンを見る。彼が同じ執着を持っているとしたら、彼もまた妖精族の敵と言うことになってしまう。それは悲しいことのように思えた。少なくとも、今こうして市場を並んで歩く彼から、エレインを傷つけようとする意思は読み取れない。
「そういえば、バンはお金を持ってるの?」
 腹ごしらえをしよう。バンはそう言って、エレインを市場に伴うと決めた。それにもかかわらず、一向に金を出して何かを求めようとしない彼にエレインは首をかしげた。
「昨日、お前に仕事邪魔されたおかげでスッカラカンだ。コイン一枚持ってねぇよ」
「じゃあ、どうするの?」
 邪魔をしたというのははなはだ心外な表現だが、エレインとの応酬でバンが捕まりかけたのは事実だった。バンの空腹を案ずるエレインに、バンは「まぁ、見てな」と笑った。
「今日の朝飯はどれにすっかな」
 楽しげに周囲を見回したバンは、ある果物の出店に目をつけた。恰幅の良い店主が客とやりとりをしている脇を、バンはすっと通り過ぎる。次の瞬間にはもう、赤々としたリンゴがひとつバンの手の中に合った。
 ニッと笑って、バンはエレインに戦利品たるリンゴをかかげて見せる。その背後で、バンと同じように万引きを働こうとした少年が、店主にその手を叩き落されていた。
「どうだ、たいしたもんだろ?」
 店主の視界から抜け出して、バンはリンゴを宙に放って弄ぶ。確かにすごかった。一瞬で、リンゴが店の籠からバンの手に移動した。彼のしたことが盗みだとは思えないほどの、見事な手並みだった。
 エレインは、はてなと首をひねった。
「ねぇ、これって悪いこと?」
「まぁな。でもしょうがねぇだろ。金がねーんだから」
 人は得るために働き、その金で日々の糧を賄う。さっきまで真っ当な金の流れをエレインに解いていたのと同一人物とは思えないほど、バンが口にした論理は身勝手だった。エレインの胸に、人間へのぬぐいきれない嫌悪感が蘇る。
「返してきなさい」
「やなこった」
「バン!」
 バンの居直りが、エレインには赦せなかった。人間のこういうところが強欲の種になり、いらぬ災いを呼ぶ。そんな種はいますぐ潰してしまうに限るのだ。彼が、妖精族の敵になってしまう前に。
 エレインは両腕を突き出した。広げた手のひらが熱くなる。次の瞬間、エレインは手に溜まった熱を、反省の色のない彼に放った。
「おおっ?」
 目に見えないその力を、バンはぎりぎりのところで避けた。狙いを外したそれは彼の背後で破裂する。市場の真ん中で、粉塵が上がった。
「なんだっ?!」
「キャァッ」
 突然のつむじ風に、近くにいた人間たちが騒いだ。出店のシェードがまくれあがり、砂埃が渦となって屋根の上まで吸い上げられた。
「た、竜巻だっ……!」
 旋風の近くから、ガタンッと何かが傾く音がした。バンがリンゴを盗んだ、果物屋の屋台の脚が折れた音だった。斜めになった台から、山のように積んでいた赤い実がごろごろと転がり落ちる。加重が極端に傾いたせいで、隣接していた出店の脚も次々と折れていく。
「危ないぞ! 店から離れろ!」
 ドミノ倒しのごとく、ゆっくりと倒壊していく市場をバンとエレインは眺めている。物倒れる音、ぶつかる音、張りつめた声が飛び交う中、リンゴがひとつ、地面を転がってきてバンのつま先につぶつかった。
「やべ……!」
 風はすでに消えている。降り注ぐ砂埃が目や口に入って苦しそうな者はいるが、怪我人は見当たらなかった。けれど増え続ける物的被害の大きさに、市場はいまだ騒然としている。バンはエレインを連れ、その場に背を向けてそそくさと逃げ出した。
「バンが悪いのよ」
 市場から遠く離れた通りで、家の屋根に腰を落ち着けたバンにエレインは言った。
「場所もかまわず、風ぶっぱなしたのはお前だろーが」
 エレインからの批難にバンはきっぱりと言い返した。確かに軽率な行動だったと、エレインは反省する。まさかこの体で、本当に風を巻き起こせるとは思わなかったのだ。その点で非は間違いなくエレインにあった。
 しかし、そもそもはバンが彼女の目の前で泥棒などするからいけないのだ。肝心のリンゴは、いまだバンの手の中だ。今からでも返しに行けばいい。もう騒ぎも収まっている頃だろうと、エレインが言い終えないうちにバンはあろうことか、リンゴを二つに割ってしまった。
「これでもう返せねぇな」
 ニッと向けられた笑顔の屈託のなさが信じられない。エレインがあきれている間に、彼は割ったリンゴの半分をエレインに差し出した。
「食えよ。そしたらお前も共犯だ」
 ずいと目の前に押し出されたリンゴに、エレインは反射的に両手を出す。バンの手からエレインの手へ、移動するはずだったリンゴの半身は彼女の手のひらに受け止められることなく屋根の瓦に落ちた。とん、と弾んだリンゴは、割れた面を車輪のようにして屋根の傾斜を転がり、屋根の縁から飛び出してしまった。
 消えたリンゴを追って、二人が下を覗き込む。通りの石畳に赤いものが見えた。バンがエレインに分け与えようとしたリンゴは、たまたま通りかかった野良犬の朝食になった。
「あーあ、もったいねぇことしやがって」
「そんなこと言われたって……」
 エレインは声に力を込めることができなかった。犬に食われたリンゴの半身は、エレインが現世のものに触れられないことを教えてくれた。リンゴが自分の手をすりぬけた光景は、市場で人々が彼女の体をすり抜けていった時よりずっと衝撃的に映ったのだ。
 エレインの動揺を、傍らのバンは気づいていた。片方だけになってしまったリンゴを手に、バンは屋根にぺたりと座り込んだ彼女を見やる。
「触れねぇ、見えねぇ、声も聞こえねぇ……、だが風は操れる。どうなってんだ?」
 聞きたいのはエレインのほうだ。市場でバンがエレインに話しかけるたびに、通り縋る人間たちが不思議そうな顔をしていたのを彼女は覚えていた。おそらく、この世の大多数の人間にエレインの存在は知覚できない。だからこそ、そんなエレインの姿や声を、どうしてバンだけが見たり聞いたりできるのかが不思議だった。
 しかし、そのバンでさえ、エレインに触れることは出来ない。ためしにバンからエレインの手を伸ばしてみても、彼女の腕を握ろうとした手は空を掴むだけで終わった。
「マジで幽霊……かねぇ?」
 しみじみと、どこか確かめるようにバンは呟く。大きな口をあけて、彼は半身になったリンゴをかじった。シャリシャリと咀嚼する音だけが二人の間にある。こうしている姿も、傍目にはバンがひとりで食事をしている風にしか見えないのかと思うと、気持ちがますます沈んでいきそうになる。
「使えるな、こりゃ」
 意気消沈するエレインを、引き止めたのはバンだ。彼はニィっと笑った。どこからどう見ても悪そうな笑顔に、エレインは嫌な予感をこれでもかと感じて、気落ちしていたことを忘れかけた。
 芯だけになったリンゴを、バンが放り捨てた。空いた手で、ズボンのポケットからバンが取り出したのは一枚の紙だ。市場で入り口で、配られていた記憶がある。
「ちょーっと、こいつに協力してくれねぇか? エレイン」
 広げられた紙には、カード賭博大会の文字が。開催の日時は、今夜だった。




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