14. 触れ合うものたち 後編

※inspired byはこ様


 生命(いのち)の泉のほとりで、バンが呟いた。
「そもそも、何だったんだろうな。お前が俺んトコに現れたのは」
 彼の膝の上で、エレインはエールラベルコレクションを眺めていた顔を彼に向けた。彼の高い鼻梁が、妖精王の森の空を仰いでいる。この時、生命(いのち)の泉が奏でるせせらぎのほかに、二人の会話を遮るものはなかった。バンの声も姿も、そして彼の話す過去も、すべてエレインひとりが独占していた。
 バンが口にした、彼とエレインの出会いそのものへの疑問。それは、アバディンエールのラベルを眺めながら、ジバゴとの出会いや暮らしぶりをバンがエレインに語り聞かせているさなかで生まれた。バンの昔語りに夢中になっていたエレインは、急に現実に引き戻され不満を表情に浮べる。
「こだわるのね」
「そりゃな。アレのおかげで、俺の人生変わっちまったし」
 さらりと零されたバンの爆弾発言に、エレインの頬はぽっと赤くなった。もう半透明だったあの頃とは違う。彼女の肌の色はバンの目にとまり、彼女の気持ちを如実に語ってしまうのだ。彼が明後日の方向を向いたままなのが幸運だった。
 人生が変わる。バンの言葉はまさにその通りで、エレインと出会わなければ、バンが今ここにこうしていることは叶わなかった。たとえバンが、ジバゴとの因縁からこの森を目指したとしても、余所者を嫌い、森と聖女を畏れる里の者から、バンが森の情報を聞きだせた可能性は低い。彼がその難題を成し遂げられたのは、ひとえにエレイン会いたさゆえだった。
 たったひとつの出会いに、人生を変えさせられたのはエレインも同じ。バンによって、彼女は700年の孤独から解き放たれた。それどころか、生まれて初めての恋に身を浸して溶けそうになっている。その彼もまた、彼女の細くて小さな体を決して離そうとしない。もう二度と彼女の輪郭を見失うまいとする姿勢は、彼が彼女への恋に夢中になっている証だった。腰を下ろした膝から伝わる彼の体温と筋肉の硬さが、二人の親密な距離を物語る。
 すべての始まりは、アバディンだ。場所は、夜も更けたロクサヌの屋敷。あの夜の出会いは、ひとりの妖精と、ひとりの人間の人生を変えた。まったく違う生き方をしていた二人の時を、交わらせたあの瞬間に一体何が起きたのか。その手がかりを求めて、エレインはバンに尋ねる。
「妖精族に知り合いは?」
「ねぇ」
「なら、妖精族の羽に関わったことは?」
「ねーな」
 さっぱりわからないと、バンは頭をひねり続けている。エレインはバンを見上げる姿勢が苦しくなって、手元に目を落とした。アバディンエールの、ワイルドベリーを摘む農夫を象ったラベルのページを、指で撫でる。羊皮紙の手触りで指先を慰めながら、彼女はあることを思い悩んでいた。
「エレイン」
 バンに呼ばれ、顔を上げる。大好きな彼の真っ赤な瞳がエレインを映したかと思うと、彼の顔そのものがずいと寄せられてどきりとした。鼻の頭が触れ合いそうな距離の意味を、エレインは知っている。
「バ、バン……?」
 キスはした。もう、何度も。この森で再び巡り会えた瞬間、二人は生命(いのち)の泉もそっちのけで、我も時間も忘れて唇を重ね、互いの腕の力を感じあったのだ。ようやく互いの腕の中の存在が、夢でも幻でもない、意識と肉体を持った命あるものだと確信して、落ち着きを取り戻してからも二人は折々にキスを交わした。
 例えば、さっきだって。
 バンのラベル語りに、彼の膝にエレインが腰を下ろした時がそうだった。エレインを後ろから抱き込んだ彼は、エレインの首筋に鼻頭を寄せて言った。
「いい匂いがする」
「そ、そう……?」
 日ごろ髪に隠された彼女の白いうなじに、ふっと吹きかけられた彼の声の気配に肌が痺れた。肌の下から溶けていきそうな甘さに、エレインの声がどもってしまう。その隙に、バンは長い腕をさらに彼女に巻きつけて、すんすんと鼻を鳴らした。
「すげー、いい……。香水? じゃねぇよな?」
「知らないわ……自分の匂いなんて、わからないもの……」
 マジでいい。落ち着く。ずっと嗅いでいたい。バンの絶賛の嵐に、エレインは恥ずかしいやら嬉しいやら、肌を撫でる彼の声が艶かしいやらで感情をもみくちゃにされる。わけのわからなさに身をすくめていないと、体がくたりと芯から折れて、彼の腕に倒れこんでしまいそうだった。
「そういえば……、兄さんも、いい匂いがしたわ。甘くて、優しくて、……ほっとする、兄さんらしい匂い」
 バンの声の愛撫から逃げ出したくて、違うことを考えれば兄のことにたどり着く。緩んだ頭は浮かんだことをそのまま口に上らせていた。
「まーた、兄貴か」
 肩口に響く、バンの声が不機嫌だった。肩をつかまれ、振り向かされ、顎をすくわれて口を塞がれる。一連の動作にためらう様子はカケラもなくて、唇を舐めるようにキスをされてしまえば、ますます頭がぼんやりとしてくるエレインに彼は言った。
「俺以外のヤローの話すんなら、また口塞いでやるから覚悟しな」
 潤んだ瞳で映したバンの険しい顔に、鈍い思考でエレインはどうかしていると思った。実の兄に嫉妬して、みっともないほど独占欲をむき出しにして。けれど彼から向けられる強欲が、心の底から嬉しいと感じる彼女自身が一番どうかしている。第一、兄のことを口にした罰が、彼からのキスなら脅しにならない。エレインは、バンにされるキスが嫌ではなかった。それどころか、彼となら、唇が痛くなってもキスしていたい。
 エレインは迷った。ここでまた兄のことを持ち出せば、キスして欲しいと言っているようなものではしたないし、かといって黙ってしまうのはキスされたくないと誤解されてしまう。ああ、とも、うう、ともつかない声を漏らすエレインのそこを、バンのキスが強引に塞いだ。
 そんなエレインの女心は、今でも、いざ口づけを求められれば恥らいが先に立つ。それでいて、全くの拒絶と思われるのが恐ろしいのは変わりないのだ。逡巡の果てに、彼に誤解されない程度に肩をわずかに引いてみせると、その肩をバンの大きな手が優しく掴んだ。
 バンが来る。エレインは予感した。まだあたりは明るいし、さっきもしたばかり。でも、他にだれもいないなら構わないのかもしれない。バンさえ、このはしたないエレインを欲しいと思ってくれるのなら、彼に根こそぎ奪われたい彼女に異論のあろうはずがなかった。
 そう覚悟と共にエレインがまぶたを下ろそうとした間際、野暮な声が二人の唇の間に割って入った。
「お前、なんか心当たりあんだろ?」
 色気もへったくれもない、単刀直入な声はバンのものだ。問われた内容にも、エレインが期待した砂糖菓子のような甘さはない。すっかり彼のキスを受ける気だった彼女の唇は、一向に降りてこない彼のそれを恋しいと思った。
 空気を読まない、バンの筋金入りの鈍さに呆れる。だが、惚れた腫れたに重きを置いてこなかった彼の感性は、独特の鋭さでエレインの胸の内を見抜いていた。
「あなたも心が読めるの?」
 目を大きく丸くしたエレインに、バンはカカカッと笑う。彼の指摘は正しかった。
表情(かお)見りゃわかるっつーの。伊達に修羅場はくぐってねぇよ」
 お前も知ってるだろ、とバンはアバディンの街で過ごした7日間をエレインに思い出すよう促した。盗みに、ペテン、逃亡劇に、脱獄からの火事騒ぎ。
 その数々の現場で鍛えられたという彼の眼力を、目の当たりにしたエレインは瞼を伏せて彼から目を逸らした。自分が相手の心を読むときに感じることのなかった、羞恥がとてつもない大きさとなって自分の内側から湧き出てくるのを彼女は感じていた。心読まれるとは、これほどいたたまれないものなのか。読まれる側に立たされてしまった今、エレインはもうかつてのようにやすやすとは人の心を読めないだろう。
 とりわけ、エレインが覗くことを恐れるのは、他ならぬバンの心だ。好きだから。何もかも知りたいから。だからこそ、読むのではなく聞かされたい。彼にまつわることならどんな些細なことだって、彼の口から知りたかった。
 そうして俯いた頭に、優しい重さがかけられる。バンの大きな手が、エレインの髪を撫でていた。あの、風の吹く丘で過ごした別れの日のように。だが今度は、バンの指の動きに合わせて、エレインの金髪はサラサラと揺れた。
「それで? 焦らさねぇで聞かせろよ」
 バンはここにいる。エレインのすぐ傍にいて、彼女を抱きしめてくれている。それは、彼が彼女を愛しいと思ってくれている、何よりの証拠に思えた。
 俺の所。バンは、エレインが姿を現した場所をそう表現した。ロクサヌの館でもなく、額縁におさめられた妖精族の羽でもなく、彼女の出現それ自体に彼自身が関わっていると確信している。まるで運命の糸を信じているかのような彼の発想に、エレインは自分の小指にまきついた目には見えない赤い糸を思って心ときめかせた。
「バカにしない?」
「おう、言ってみな」
 気負いのない声が、エレインの勇気を奮い立たせる。
 エレインが導かれたのは、同族のSOSではなくバンそのもの。その考えはエレインの恋心を満たすだけでなく、彼女があの7日間、彼の傍から離れられなかった説明にもなった。20ヤードの見えないあのロープこそ、二人の運命の糸だったのだ。
 では、その運命の糸を二人に巻きつけることが出来たのは、誰なのか。おずおずと、エレインは抱えた秘密を打ち明けた。
「神樹がやったんじゃないかしらって、思ってるの」
 エレインを撫でる、バンの手がぴたりと止まる。彼の反応が怖くて、彼女はドレスのヒダを握った。
「神樹って、お前んトコの世界に生えてるっていうでっかい樹か?」
 人間は神樹を持たない。そのせいか、バンはエレインの言うことがどうもピンとこないらしい。彼のために、エレインはもう少し噛み砕いた言葉を重ねた。
「神樹が、私とバンを……、引き合わせようとしたんじゃないかなって」
「どうして?」
  エレインは肩をすくめる。今だけは以前のように透明になってしまえばいいと思いながら、自分に都合のいい仮説の核たる部分を恥ずかしさで胸をいっぱいにして吐き出した。
「バンを、私の……、『お婿さん候補』にって……」
 恥ずかしかった。顔から火が出そうだった。それでも、二人はあの、通常ではありえない出会い方を経て、恋に落ちた。ありえないことをありえるものにしてしまう強大な力が、エレインには神樹の恩恵としか思えなかったのだ。
「お前、結構こっぱずかしいこと考えんのな」
 待っていたような、そうでないような、バンの反応はエレインをますますいたたまれなくさせた。彼を見ることはもちろん、彼の視界に自分の顔があることも耐えられなくて、エレインはそっぽを向く。
「わ、笑わないでって、言ったじゃない……!」
「笑ってねーよ」
 それは優しい声だった。顔を背けた分、近くなった耳元に彼の唇がそっと触れる。
 初めは、どうして自分が半透明なのかも、どうして人間の街にいたのかも、どうして何も触れられないのかも、何もわからなかった。そんな不確定な状況の中で、エレインにとってただひとつ確かなものがバンだったのだ。お定まりの紆余曲折を経て、異種族の二人は心を通わせた。悲しい別れを経て、こうして再び巡り会えた今、彼との出会いは必然だったのだとエレインは信じている。
「そうなら、いいな」
 バンが囁く。ずるい。こんな声は、本当に卑怯だ。
 吹き込まれる甘い声音にうっとりとしていれば、つんと背けたエレインの、小さな顎をバンの手が優しく掴む。そのまま、強引に振り返らされた。向き直った唇を、迎えたのは彼の唇。やわく押し付けられた唇に、せっかく戻った体の輪郭が溶けだすのを感じる。くたりと力の入らない体を支えて欲しくて、彼女は恋しい彼に腕を絡めた。
「もっとだ、エレイン」
 そう言ってバンの手が、エレインの顎に触れる。エレインの唇が、再び降ってくる彼のキスを受け止める。隙間なく重なる二つの体は、エレインにバンが、バンにエレインが、触れられなければ叶わない奇跡だった。


 不確定には触れられない。
 確たる想いが、異なる二人を触れ合わせた。







「不確定には触れられない」 終
 最後までお付き合いありがとうございました。
 ※の解説(反転)
 最終話「触れ合うものたち 後編」は、拙作「この森に王はいない」に寄せていただいた感想がヒントになっています。
 「バンの苛酷な生い立ちは、森からの与えられた試練ではないか」という趣旨が非常に興味深く、アレンジして使わせていただきました。ヒントをくださいました、はこ様へお礼申し上げます。

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