１０． ノスタルジア 後編
セリオンをその場に残し、バンは一度宿の部屋に戻って財布を引っつかんだ。すぐに引き返したバンは、セリオンの手にそれを握らせる。ロクサヌの賭博会場で儲け、エレインの依頼をこなして手に入れた金貨銀貨はまだたっぷりと残っていて、財布はずっしりと重たかった。
「もらえないよ」
セリオンは眉をハの字にして首を振った。しかし、バンも譲らない。
「どうせあぶく銭だ。俺じゃロクなことに使いやしねぇからな」
「でも、いくらなんでもこんな大金……」
「だからだよ。こんな金持ってたら調子が狂うぜ。俺は身軽なほうが良い」
バンがそうして意地を押し通すものだから、ついにはセリオンも財布を返す手をひっこめた。
「必ず返すよ」
「いらねぇ」
「そんなこと言わないで。一度キャメロットに遊びに来るといい。歓迎するよ」
遊びに来い、歓迎する、そのどちらも慣れない言葉でバンはむず痒い。社交辞令だとしても、バンをそんな風に受け入れてくれる人間は極めて少数だった。そんな少数派の彼は、さらに驚くべき言葉をバンに与えた。
「僕たち、友達になろうよ。バン」
同じ言葉を、彼と出会った監房でも聞いた。同じなのに、紡がれる響きがまるで違う。バンの胸の、柔らかい部分がきゅっと掴まれるほどに。
セリオンは優しい、良い奴だ。しゃべりかたが少々面倒くさい男ではあるけれど、それを補って余りある好意をバンに示してくれている。ジバゴの息子も、ジバゴいわく「人見知りだが優しい」子どもだった。いつかジバゴに引き合わせてもらえていたなら、バンはセリオンと友達になれたかもしれない。
「やめとけ。獄中で会ったろくでなしのことなんざ、さっさと忘れるこったな」
だからこそ、目の前にいるセリオンの好意は受け取れない。彼はこれから、長く苦しかった復讐の道を捨て、明るく広々とした太陽の下の道を歩こうとしている。自分のような日陰者と、彼は違う世界の住人であるべきだった。
「残念だな、これっきりだなんて」
そう言ってセリオンは、バンの右手を取った。あわててバンが引っ込めようとするのを、強く握り締めて止める。彼の命を救った、バンの「強奪」の右手を、セリオンは両手で包んでくる。
「君は、僕の命の恩人だ。気が向いたらでいい、いつかキャメロットで僕を訪ねてくれ」
人から握手を求められたのは、これが初めてだった。他人の握力にバンが思わず同じ力で握り返すと、触れ合った手のひらの間に、何かが生まれたような気がした。
「やなこった、めんどくせぇ」
「ははっ、君って良い奴だな。『BAN』なんて名前じゃもったいないよ」
「余計なお世話だっつの」
それがセリオンとの別れの会話だった。去り際、セリオンはまた見えないはずのエレインを探して挨拶をした。何も見えないだろうに最後までバンの話に合わせてくれる、セリオンはやはり良い奴だった。
こうしてバンは、再び文無しに戻った。宿代が払えないと知るや否や、バンを部屋からたたき出した宿の主人を責めることはできなかった。恨み言を口にするでもなく、慣れた様子で野宿の準備をするバンの後ろを、エレインはくっついていた。
「お前といるとロクなことがねぇ」
バンが振り返りもせずに、不平を口にする。彼女に向けられるバンの声が、エレインには随分久しぶりのように感じられた。彼と最後に口をきいた、未明の火事騒ぎからまだ半日しか経っていない。その半日がひどく遠いものに思えるのは、セリオンのせいなのだろう。
セリオンとバンの会話に、エレインは終始口を挟まなかった。彼らの間に芽生えた友情を、エレインはほんの少し羨んでいる。
「私のせいなの？」
「盗みは二度もしくじるし、イカサマの儲けも一日でパァだ」
兄と、兄の親友も、バンとセリオンを結んだものと同じもので繋がれていたのだろう。彼らと共にいた頃のエレインには、目に見えないその糸がわからなかった。けれど、今は違う。自分もバンと、セリオンのような関係が築けたらと夢を見る。望むだけで、エレインは口にしようとは思わなかった。期待はきっと、叶わないとわかっている。
「だから、泥棒もズルもいけないことなの。悪いことしなくてよかったのよ」
「二件目のヤマはてめぇの注文だってこと忘れてねぇか」
「そ、それはともかく！ セリオンにお金を渡しちゃうなんてね。良いことよ、よくできました」
「別に、良いことしたくてやったわけじゃねぇよ」
「なら、どうして？」
どうして、ゆうべ牢獄で二言三言口をきいただけの相手に、大金を譲ってしまうのか。自分の命も顧みず、炎から救い出そうとしたのか。バンがセリオンへ向ける尋常ではない執着のその理由を、エレインは尋ねたくて、とても尋ねたくて、けれどずっとためらっていた。
バンは火を起こす手を止めた。彼の目は遠くを見ている。彼女を見ないその紅い瞳を、エレインは好きになれそうになかった。バンはきっと打ち明けてくれない。その確信が、エレインの心を硬くする。
「俺には、親父がいた」
だからぽつりと、こぼされたバンの言葉にエレインは耳を疑った。バンはもう遠い目をしていない。再び手元に目を落として、彼は火の準備を続けていた。
「血は繋がってねぇ。アバディンの牢で拾われて、盗みを教わった」
エレインの目には、バンの姿のほかに、バンの心の水鏡が見える。エレインの耳には、バンの声に重なる彼の心のオルゴールの音が聞こえる。どちらも、彼のありのままをエレインに伝えていた。
「ある日、親父は俺の前からいなくなっちまった。その親父の、本当の息子の名前がセリオンだ」
「そうだったの」
それは10年以上昔の話だった。幼く未熟だったバンは、無謀にもひとりでロクサヌの屋敷に盗みに入り、あっさりと捕まった。ゆうべと同じように、見張り番に殴る蹴るの暴行を受けているさなか、助けにきたはずの「親父」はバンを見捨てて去っていた。その「親父」こそが、エレインの胸にずっと引っかかり続けていたジバゴの正体だった。
「それっきりだ。ジバゴが生きてるか、死んでるかもわからねぇ」
見張りの目を盗んでロクサヌの屋敷から逃げ出したバンは、傷だらけの身ひとつでアバディンを離れ、ひとりで生きることを選んだ。ブリタニアの各地を放浪し、金銀財宝への見識を養い、盗みの腕を磨いた。手足が伸びきる頃には、いっぱしの盗賊として、彼はバンデット・バンと呼ばれるようになっていた。
そして彼は、アバディンに戻ってきた。１０余年ぶりにロクサヌの屋敷に盗みに入り、彼はエレインと出会ったのだ。
「別に欲しいもんなんかなかった。ただ俺は、あのババアの屋敷で盗みをやり遂げてみたかっただけで」
あの時の失敗を、取り戻せれば。遠いあの日に時間が巻き戻って、ジバゴが自分の前に現れてくれるような気がした。あの夜の盗みは、そんな一縷の望みをかけたバンの、バンのためだけの大仕事だった。その大事な仕事をエレインは台無しにしてしまった。二度目の仕事すら、成功したとは言いがたい。けれど、そのことをバンが恨むそぶりは見えない。恨むどころか、彼は小さく笑って見せた。
「バカみてぇだろ」
時間が巻き戻る。そしてすべては元通りに。そんな愚かな夢想にとりつかれて、必死になっている姿はさぞかし滑稽だろう。そんなことはわかっている。わかっていても、縋らずにはいられない希望なのだ。
バンのことをエレインは笑えなかった。彼の願いに、エレインは身に覚えがありすぎたから。
「少しの間だけ、森を頼む。エレイン！」
王たる兄はそう言って故郷から飛び去った。遠ざかる兄の背中を、エレインは涙に暮れた瞳で見送るしかなかった。けれど、本当に他に方法はなかっただろうか。
あの時、兄について森を出ていれば。あの時、兄の足にすがり付いてでも止めていれば。今更考えても仕方がないことを、考えずにはいられないのが後悔というものだ。時間を巻き戻して、間違いを正したい。そう願う気持ちが、エレインには痛いほどよくわかる。
「ちっとも、バカじゃないわ」
エレインの慰めが、バンには意外なようだった。彼女を見上げる、彼のルビー色の瞳が丸くなっている。彼のこの顔がやはり幼くて、エレインは好きだ。
「兄さんがいるって、言ったでしょ」
「故郷を出ちまったって」
「私も、兄さんが帰ってくるのを待ってるの。もう700年よ」
「ななひゃ……く！」
「バカみたい？」
バンを真似して尋ねてみる。バンはエレインの700年に驚くけれど、人間にとっての10年だって決して短くはないはずだ。人生の何分の一になるかはわからない。それだけの長い時間、バンとエレインは、互いにとって特別なたったひとりの帰りを待ち続けていた。
バンの顔に、笑みが戻る。自嘲の笑みとは違う、柔らかな微笑だった。
「……バカだよ」
「あら、随分ね」
エレインはバンの傍らに寄り添った。触れられない体を、バンが腕を回して迎え入れる。あずけられない頭をバンの肩に預ける前に、バンと顔を見合わせて笑った。
「私、嬉しい」
「何が」
「ジバゴやセリオンのこと。バンの口から聞けたから」
「こんなことが聞きたかったのか？」
「バンには大切な話じゃない」
エレインはずっと悲しかった。バンは、エールラベルコレクションに綴ったジバゴの名も、獄中で出会ったセリオンのことも、何一つ説明してくれなかった。エレインはすでに、兄のことを彼に打ち明けていたというのにだ。
出会って数日の少女に、しかも妖精と言い張りながら体は半透明の奇妙な彼女に、すべてを打ち明けろとは無茶な話だとわかっている。それでもエレインは寂しかった。その寂しさが今、春風に触れた雪のように溶けていく。
兄に代わり、妖精王の森を守って700年。その間、森に現れた人間の眼中にエレインの姿はなかった。エレインは、彼らが生命の泉に達するのを阻む障害でしかなかった。羽すら持たない彼女に、価値を見出す人間はいなかった。
バンが初めてだったのだ。エレインの話を聞いてくれて、頼みを果たそうとしてくれて、彼女自身と正しく向き合ってくれた人間は。その彼が、彼自身のことについては口を噤む。彼のことをわかりたいのに、わからせてくれない彼の言動が恨めしかった。バンと一瞬でも、何かを通じ合わせたセリオンが羨ましかった。
「俺もお前も、ひとりぼっちか」
「今は、バンがいるからひとりじゃないわ」
彼との間に立ちはだかる、心と種族の壁は溶けて消えた。エレインはようやく、セリオンと同じ場所に立てたのだ。
「賊と一緒でいいのかよ、聖女さまは」
やはりバンは、エレインが聖女と呼ばれていることを知っていた。だが、そんなことはどうでもいい。
「問題ないわ。だって、バンは良い人間だもの」
「まだ言うか」
バンはエレインの寄せる好意に、セリオンと同じ態度で応じようとしていた。彼はこうして過去幾度となく、自分に好意を寄せる相手を遠ざけてきたのだろう。それが自分を守るためなのか、彼なりの優しさなのかまではエレインにはわからない。ただ彼が、特別な人を作る機会をずっと逸してきたことだけはよくわかった。
「セリオンだって、そう言ったわ」
エレインしかり、セリオンしかり。バンが良い人間だと知るひとは必ずいる。エレインは胸を張った。
「ひとりじゃないのよ」
エレインも、バンもそうだ。二人は似たもの同士だから、いつかは互いにとって特別な何かになれるはず。エレインの見せる自信に、バンはひどくくすぐったそうな顔をして見せた。バンの心の音が聞こえる。彼が心に思い描く光景は、ジバゴに頭を撫でられた場面だった。
その場面が終わっても、彼の心のオルゴールはメロディーを紡ぎ続ける。ジバゴとは別の何かが、心地よい旋律を響かせていく。それが何か、バンはわからずにいる。それでも、彼の心の水鏡に金髪の白いドレス姿の「誰か」が浮かびかけていた。
それでいい。今はまだ。それだけで充分だ。
エレインの存在は、バンの心を動かしている。彼のその心の動きが、たとえ肉体を持たずとも、彼女が確かにここにあることの証だった。
エレインは誇らしかった。半透明な姿で目覚めて以来、いや、それ以前から、これほどまで自分の存在に確信を持ったことがあっただろうか。
「エレイン……？」
だからこそ、バンが向けた不穏な声音と驚きの表情が意外だった。今の彼女に、不安に思うことはひとつもなかったのだから。
「なぁに？」
エレインは首をかしげる。バンは彼女に正面から向き直った。膝が触れ合う近さで対面する彼女を、バンの紅い目がしげしげと見回す。不躾な視線に気恥ずかしさを感じ始めたころになって、彼はおもむろに口を開いた。
「お前、薄くなってねぇか？」
やっと心を通じえた、二人の現実は残酷だ。ようやく孤独を分かち合えた二人に、別れのときが近づいていた。
※セリオンはジバゴの息子と同名の別人、当連載限定のオリジナルキャラクターです。
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