12. 不確定には触れられない 後編




 丘の上にいるのは、どこを見回しても二人きりだった。目の覚めるような、真っ青な空を白い雲が低く流れている。手を伸ばせば届きそうなほど、低く。
「楽しい」
 エレインは言った。バンの視線は、彼女から離れない。丘からの素晴らしい眺望も、刻一刻と形を変える雲も、バンの気を惹かなかった。バンはずっと彼女を見ている。朝から、ずっと。へたに焦点をずらしてしまえば、二度と見えなくなるのが恐ろしいほど、エレインの笑顔は透き通っていた。
「そうか」
 エレインのその言葉で、バンは充分に心を満たされていた。デートなんて生まれてこの方一度もしたことがなかったけれど、バンのエスコートは彼女の眼鏡にかなったらしい。
 誇らしい気分で、バンは彼女と隣同士で芝生に腰を下ろす。狙い済ましたかのように、気まぐれな風が吹いた。やわらかな風はバンの短髪は揺らすくせに、エレインの金の髪はぴくりとも動かさない。隣り合っているのに、まるで違う空間にいる。彼女が消えかけていることと同じくらい、それは寂しくて、バンは彼女によって満たされたはずの心がしぼんでいくのを感じていた。
 彼女が消える。そうしたら、バンはまたひとりぼっちだ。7日前まで、バンにとってひとりは日常だった。当たり前だった。その当たり前の日々が戻ってくる。それが、今となってはひどく不安でしかたがない。
 しゃべりたくなったときは、どうしたらいい。一緒に眠りたくなったときは。バカなことをして、叱られたいときは。誰かに殴られて痛いとき。夢と現実がわからなくなって炎に飛び込みそうになったとき、いつだってバンを救ってくれた彼女はいない。
「満足か」
 バンが寂しくとも怖くとも、今、エレインが楽しいならそれでいい。バンは自分にそう言い聞かせた。この7日間、彼女には世話になりっぱなしだったから。最後の最後くらい、彼女のために楽しい時間を全力で作ってやりたかった。
 しかし、バンのその想いに反して、肝心の彼女の顔が俯いていた。幼い横顔は、微笑みながらも影があった。
「まだ、やりてぇことでもあんのか」
 バンの問いかけに、エレインはゆるゆると首を振る。じゃあ、なんで。とバンが問い詰める前にエレインが応えた。
「触れたら、良かったのになぁって」
 彼女の瞳の中の、光は分散し、集まり、また散らばっていく。きらきらと滲む光の一粒にいたるまで、バンは捕まえて大切にどこかに飾っておきたい。水面に揺れる星屑のような光を揺らしながら、エレインは彼女が「触れたら良かった」と思うものを指折り数える。
「バンが見せてくれたもの、お金とか、エールの本とか、市場で見つけた髪留めも。あの落としちゃったリンゴだって食べたかった。それから……」
 彼女は少し言いよどんだ。顔を寄せて先を促すと、彼女はバンを見上げてくる。極近くにある、上目遣いはやはり星をちりばめたように輝いていて、可愛い。
 ジバゴの名にかけて誓っていい。誰かを、可愛いと思ったのは生まれて初めてだ。可愛いという言葉の意味を、バンは知った。芝生が透けて見える彼女の頬が、どことなく赤く見えた。
「バンと、手を繋いでみたかったなぁ」
 彼女は笑って、すぐに顔を伏せた。抱えた膝のドレスのヒダを小さな指がいじっている。バンの無骨な手で包んだら、見えなくなってしまうほど小さなこの手に、もし触れることができたなら。やわらかくて、壊れそうで、握りつぶさないようにするのにバンはきっと気を遣うだろう。面倒くさいことは嫌いなはずなのに、それでもバンは彼女の繊手を握りたくて仕方がない。
 そんな指で見せた彼女のはにかみに、バンの胸のやわらかい場所がつねられる。俺だって。バンは声に出さず、彼女に応えた。
「エレイン、こっち」
 バンの声に、エレインが顔を上げる。彼女にわかりやすいように、バンはあぐらをかいた膝を手で叩いた。彼女は少し驚いて、バンを見た。頷くと、それからおずおずとバンの足の上に腰を下ろした。
 エレインを膝の上に乗せても、もちろん重さも何も感じない。だが、目鼻の近さで、エレインがバンの顔を見上げる様は見ていて気分がよかった。
 あ、と彼女が声を上げた。
「治ってきたね」
「何が?」
「ロクサヌに付けられた、タバコの傷」
「ああ。あんなもん屁でもねぇよ」
 すっかり忘れていたと嘯けば、くすくすとエレインが笑う。ようやく戻ってきた、彼女の笑顔が嬉しかった。そしてぐっと近くなった彼女の金髪の頭に、バンは手を寄せる。
 エレインがこの世のものに触れられないように、バンもエレインには触れられない。捕まえようとしても、手は彼女の体を通り過ぎてしまう。だからバンは、手のひらで触れない彼女の輪郭を辿った。頭を何度も、撫でるフリをする。アバディンの牢獄で、彼女がバンの傷を慰めてくれたように。
 エレインはバンの意図を汲んで、じっとしたまま動かなかった。
 バンはエレインの頭を撫でる。誰かを撫でるなんて、妹が死んで以来初めての経験だったから、バンはことさら丁寧に手を動かした。ジバゴの撫で方に倣おうかと考えたけれど、思い出せる彼のやり方は荒っぽくて、あれはあれでバンには嬉しかったとはいえ、目の前にいる小さな女の子には似合わない。
 だから丁寧に、丁寧に。バンは同じ動きを繰り返す。
 バンの指先がエレインの毛先をかすめても、彼女の髪はぴくりとも動かなかった。撫でられる彼女が、心地よさを感じているはずもない。それでも、バンは確かに、彼女が喜んでいるような気がした。彼女の何かに、触れられたような気がしたのだ。
 エレインを撫でながら、バンは考えた。彼女の姿かたちを、この時ほど強く意識したことは他にないと。ずっと一緒にいたのに、陽光をはじく金髪の美しさ、艶やかさをバンは初めて目の当たりしたような気がする。もし本当に彼女の髪を撫でることができたなら、とても心地の良い感触がバンの指の間を通り抜けたに違いなかった。
 髪を辿って下りた手は、エレインの小さな顎にたどり着く。控えめな唇の上には、慎ましい鼻の形。大きくきらきらとした二つの瞳は、バンの視線を強く引寄せた。
 小さなエレイン。綺麗で、可愛いエレイン。
 こんな儚くいたいけな存在が、果たしてこれまでのバンの人生に関わってきたことがあっただろうか。幼くして死んでしまった妹のほかに、バンが思い浮かべられる面影はなかった。
 エレインがもし、「女」であることを武器に、その非力さを盾に、バンに並び立とうとする女なら、バンはここまで強く彼女を見つめることはなかった。バンに安い色目を使う、最低級の売春婦を見る目と同じものをくれて終わりだったろう。しかし彼女はいつだって、彼女自身としてバンにぶつかってきた。彼女が女であることを力説したのは、バンが宿の部屋で全裸で動きまわったあのときだけだ。
 だからこそ今、彼女の存在の儚さにバンは驚く。
 小さな彼女を、バンはずっと見ていた。自分より小さい手、細い肩を知っていた。けれど、「感じ」てはいなかったのかもしれない。彼女を感じることの出来る今、小さな、小さな彼女の肩をバンは包み込んで、抱き締めて、守ってやりたくてたまらなくなる。
 エレイン。妖精王の森の聖女。だが本当の彼女は、小さな体に強い意志を宿し、バンの選んだ髪留めに喜ぶ女の子だった。
 ひとりぼっちで、世界に触れることもできないで、漂うだけの彼女はどれだけの心細さを抱えていただろう。そんな不安を、彼女は微塵も見せなかった。その強い彼女が、バンの腕の中にいる。偶然でも何でも、バンは人生に突然と降って湧いた輝きに触れてみたかった。
 意を決して、バンはエレインの頬に手を伸ばす。エレインがはっと顔を上げた。丸く大きな金色の瞳を、バンは見つめる。まだ見える。バンにも、エレインにも、互いの姿が見える限り、触れられずとも、彼女は間違いなくここにいた。
「私たち、いいコンビかしら」
 近すぎる二人の距離に、エレインがこぼした声は焦っていた。バンは気に留めず、彼女の頬の輪郭を指でたどりながら返事をした。
「逆だろ。お前といると、悪いことができねぇ」
 ロクサヌの館に、二度もしかけた盗み(しごと)はしくじり、賭けも邪魔され、金さえ手元に残らなかった。バンに顔の形をたどられながら、エレインは微笑む。
「私がいなくなっても、悪いことしちゃだめよ」
「エレイン……」
「いいの、覚悟はできてる」
 長い睫を伏せて微笑む彼女は、見たこともないくらい淡く、息が詰まるほど美しい。ロクサヌのラウンジに飾られた絵画の女神たちさえ、今の彼女と比べられては裸足で逃げ出すに違いない。
 エレインと出会ってから、彼女のたくさんの表情をバンは見た。驚く顔、笑う顔、怒る顔、悲しげな顔、必死な顔。透けているくせに、彼女のあれこれはこの世の何よりもはっきりとバンの目に映った。
 エレインもまた、バンのすべてを見てくれた。悪いところも、汚い部分も全て。そして、バンの話を聞いてくれた。どんなバカな頼みでも、愚かな夢でも、エレインはいつもじっと耳を傾けてくれていたのだ。
 そんな彼女に、バンは告げるべき言葉がある。
「好きだ」
 シンプルなフレーズは、驚くほどあっさりとバンの口からついて出た。エレインの目が、これ以上ないほど、まるく見開かれる。その表情に、バンは確信を深める。
 好きだ。バンはエレインが大好きだ。たとえ彼女が妖精王の森に住む妖精で、生命(いのち)の泉をまもる聖女であっても、バンは彼女と離れたくなかった。
 エレインの頬に手を添えたまま、バンは彼女に向かって顔を寄せた。エレインは逃げない。いつだって逃げられるのに、彼女はバンを待っている。長い睫が震えながら下りていく。閉じたままのまぶたは、バンがこれからしようとすることを受けいれていた。
 角度の違う二つの鼻梁がクロスする。そうして、エレインはバンの唇を受け止めた。
 二人はキスをした。決して、触れ合うことのないキスだった。
「いつか必ず、妖精王の森に行く。そして、お前を奪う」
 離したばかりの唇でバンが誓うと、エレインの口元からため息がこぼれる。感じるはずのない吐息が、何故かバンの唇を撫でた気がした。
「待ってるね」
 エレインは笑った。目尻から何かがこぼれたけれど、もう確かめられないほど彼女は薄くなっていた。霞んでいくのを通り越し、みるみる景色と同化していく。そんな彼女を見ていられなくて、バンは一瞬だけ、丘からの遠景に目を逸らしてしまった。
「まずは森の位置を調べねぇとな。近くに人間の村とかねぇのか。その名前がありゃ、まだなんとか……」
 返事を求めて、バンは再び膝の上のエレインを振り返る。だが、そこに人らしい姿は見えなかった。何が起きたのか、頭は理解を拒否するのに、バンの肝がすっと冷える。
「エレイン……?」
 恐れていた瞬間に、バンの表情がこわばる。エレインがいたはずの、膝の上には何のゆがみもなくて、彼女越しだった背景がまっすぐに見えた。
「エレイン……!」
 バンは立ち上がった。周囲に目を凝らした。金色の髪、大きな蜂蜜色の瞳、白いドレス、何かひとつ、彼女の輪郭を求めてバンはあたりを見回した。
「エレイン!」
 恐怖を払いのけるように、バンは叫んだ。一方で彼女の声を求めて耳を澄ました。自分の声の残響が邪魔で舌打ちをする。右を見た。左を見た。後ろを振り返って、また前を見る。だが目の前に広がるのは丘から臨むのどかな風景で、バンが見たいものは一向に姿を見せない。
 気分が悪い。足元から気力が抜け落ちていくようで、吐き気がした。彼女はどこだ。焦る気持ちが、いたずらに募った。
「返事をしろ! エレイン!」
 見えないんだ。もう、俺にも。そんな悲しいことは口にしたくなくて、バンはエレインの声を求めた。けれど、広い丘に立つバンに、やまびこひとつ返ってくるものはない。
「エレイン!」
 丘に、風が吹いた。大きくてゆったりとしたその風は、エレインから放たれるそれとはまるで違った。
「……エレイン……」
 待てど暮らせど、エレインからの答えはない。目を眇めても見開いても、丘の上で二度と、バンの瞳に彼女の姿は映らなかった。




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