13. 触れ合うものたち 前編




 アバディンでの7日間を、エレインは一夜の夢だと受け止めていた。人間の街で、人間の青年と共に、彼女は走り、怒り、笑い、戯れた。彼と心を通わせたのに、別れの言葉一つ伝えられないまま彼女は彼の傍らから姿を消さなければならなかった。
 あの日から、つまり彼女が妖精王の森で目覚めてから、すでに一月が過ぎ去ろうとしている。
「夢だったんだわ、きっと」
 記憶と何一つ変わらない森の景色に向けて、エレインは呟いた。彼女の声は、生命(いのち)の泉のある広場に拡散し、杯から不死を約束する水がこぼれ落ちる音と交わる。その音も、泉の水の輝きも、彼女が寝起きする森の広間に生える草の形も、彼女が知るままだ。たとえあの7日間が真実だったとしても、その分の時の流れをエレインが森から感じ取ることは不可能だった。もちろん、教えてくれる同族の姿はない。
 エレインは、再びわが身を取り囲む孤独を噛みしめた。人間の街で、彼といた間に感じたのは大勢の中での孤独だった。それも彼がいてくれたから癒された。しかし、この森で彼女の心を浸すのは、完全なる孤独。右を向いても左を向いても話す者のいない、例えエレインがこの場から姿を消しても気づく者さえいない、孤独の中の孤独だった。
 だから、あの日々は夢だ。700年の孤独に退屈した妖精が、気まぐれに見た泡沫(うたかた)の夢。彼女の魂が囚われの肉体を飛び出し、人間の街に降り立ったその夢は、夢だからこその不条理に溢れ、そして眩しかった。あまりの輝きに目が眩んで、ついつい夢の奥深くにまで迷い込んでしまっていたのだろう。
「夢でも、楽しかった」
 花がほころび咲くような声と共に、彼女が心に描くのは人間の街で出会った賊を名乗る青年の姿だ。銀色の短い髪、紅くて鋭い瞳。よく動く垂れた眉と、時おり牙を覗かせる大きな口。彼との思い出は、夢とは思えないほどの色鮮やかさでエレインの心に残っていた。
 エレインは妖精王の森の聖女だ。聖女は、悪意を持った人間から森と泉を守る義務を負う。その身の上に、人間の青年との日々に胸をときめかせる姿はふさわしくない。けれど、変わらないひとりぼっちの泉のほとりで、彼女のひとりごとを、彼女の想いをとがめる者はいなかった。
「バン」
 彼の名を口にしても、聞かれる心配はない。完璧なる孤独と引き換えに、彼女は夢をよすがに心を躍らせることが出来る。エレインは、ふふ、と口に手を当てて笑った。
「もし私が人間だったら、詩人か作家になれるかしら」
 妖精と人間。種族の違う少女と青年が出会い、走り回る。初めはいがみ合っていた二人が、互いの過去を重ね、心を寄り添わせ、そしてついには恋に落ちる。絵に描いたようなロマンスだ。あの7日間が夢だというのなら、ロマンスは彼女の内側からあふれ出た。その事実に、エレインは気恥ずかしさと喜びを感じていた。

 エレイン。
 エレイン。
 エレイン。

「なぁに、バン?」
 彼女の名を、数え切れないほど呼びかけてくれる、彼の声にエレインは届かない返事をする。耳に蘇る声は丸くて、低い。その声を紡ぐ大きな口が、エレインに向けられて笑うのだ。
 いつか必ず。彼のくれた誓いの言葉の響き。触れられないキスで感じた、彼の息遣い。色あせない彼の姿形に、エレインはうっとりとため息を落とした。
 夢でも良い。あんなにドキドキしたのだ。たとえこのまま森で命が尽きようと、彼女の心臓はあの夢で、きっと一生分の働きをしたのだから。生命(いのち)の泉から溢れる水音を伴奏に、エレインは心の赴くままくるくると岸辺を踊り歩いた。
 不死を約束する水音は、エレインの足取りを軽くする。こんなことは初めてだった。700年、エレインは自分が守らなければならないものに対して、何の感情も向けてこなかった。こんなものさえなければ。わが身にふりかかった理不尽を、ただそこにあるだけの秘宝にぶつけないようにするだけで精一杯だった。
 踊りをやめたエレインは、泉を覗き込む。澄んだ水鏡には自分の顔が映っていた。そこにじっと目を凝らしていると、水面に別の顔が浮かんでくる。あのときめく7日間を過ごした、賊の青年の尖った面差しが揺れていた。
「バン……」
 エレインがその名を呼ぶと、彼は笑った。無邪気そうに、エレインの大好きな優しい顔で。エレインと、彼女の名を呼ぶ、あの丸くてまろやかな声まで耳に蘇る。彼がいるかぎり、エレインは森での孤独を忘れられる。
 夢から醒めてはや一ヶ月。泉に映る彼と、挨拶を交わすのがエレインの日課だった。彼との逢瀬を叶えてくれる、泉の水にエレインは初めて慈しみのような感情を抱くことが出来た。それもこれも、すべては夢の彼のおかげだ。
「一口舐めれば10年長生き、一口飲めば100年長生き……」
 だからエレインは眉を顰めた。彼との逢瀬を邪魔する、能天気な声が耳に入ったおかげだ。また性懲りもなく、無知で愚かな人間がこの森に災いをもたらそうとしている。しかもこんな森の奥深くにまで、侵入を赦してしまった。
 夢の彼は好きだ。たとえ彼が人間であっても、少しばかり強欲な性格が目立っても、彼はその悪癖を補ってあまりある大きな心でエレインの孤独を癒してくれた。だからといって、人間そのものを受け入れようとまでは思えない。
 エレインは、これから彼女がなさなければならないことを思い出した。また始まるのだ。あの日々が。無為な言葉と、死屍累々たる光景が。彼女の心を満たしていた、あたたかくて、どこまでも果てしなく広がっていく眩しいものが霞んでいく。
「全部飲めば永遠の……」
 声が近づく。よく通る、深みのある丸い声だ。まるで夢の中の彼のような。
 恋する少女から聖女へと気持ちを引き締めかけたその時、彼女は再び聞こえたその響きに息を飲んだ。全身が金縛りにあったかと思うほどの、それは衝撃だった。
「嘘……」
 あるはずのない声は、かなりの速さで上へ上へと近づいてくる。そう時間を経ることなく、声の主はここまで登りつめてくるだろう。
 エレインはふわりと浮かび上がった。呆然として回らない頭では、低く浮くので精一杯だった。
 ふらふらと、飲んだこともない酒に酔ったようにおぼつかない飛び方で、エレインは声が上がってくる方角に向かった。胸が熱い。耳に心臓がついたかと思うほど、鼓動がうるさく激しかった。
 そして、人間が自力で登ってくるのなら、最後に手をかけるのはここだろうという木の根元に降り立つ。かくして、人の手が現れた。若い、男の手だった。
 大きな手。まるで、エレインの頭を優しくなで、彼女の頬を辿り、キスをしかけた彼の手ように。

 まさか。
 そんな……、まさか。

 おそるおそる、エレインは木の根の向こうを覗き込む。出くわしたのは、鋭い形の紅い瞳。その紅い眼差しとぶつかったとたん、エレインの世界が一点に収束した。エレインの視界を独占する、紅い双眸もまたエレインを映して丸くなった。
 見つめ合って、一呼吸。短い銀髪の、背の高い青年は、軽快な身のこなしで木の根の上に立った。
「おー、これが生命(いのち)の泉か!」
 感動を込めて響くのは、やはり角の取れた低い声だ。その声も、姿も、瞳の色も、エレインは嫌と言うほど知っている。
 彼だった。
 夢で出会い、泉で挨拶を交わす、盗賊の青年がそこにいた。
 しかし彼はエレインを見ない。彼女の頭上のはるかに高い場所から、生命(いのち)の泉と呼ばれる杯と広間を見渡していた。彼を見上げながら、エレインは黙っていた。かけるべき言葉が見つからない。そして、大きな不安を抱えていた。
 見えないのだろうか。今度は、彼にさえ。そんな想像が、恐ろしくて喉が凍る。
 エレインが何も発せずにいると、彼の視線が下りてくる。印象的な紅い瞳でぴたりと彼女を捕らえると、彼は笑った。無邪気で、穏やかな、夏の朝のような眩しいそれで、彼は呼んだ。
「よう、エレイン」
 彼が呼んだのは、彼女だった。その瞬間、夢は夢でなくなった。彼の目に映っていないのではないか、そんな恐ろしい想像すら、またたくまにかき消えた。
「バン」
「おう」
 泉の水に映る彼へのひとり言が、バンの短い応答によって会話となる。エレインはまだ信じられなかった。夢だったはず、夢でも良いと諦めていたはず。これは現実なのか、彼は本当にあのバンなのか。エレインの中に残る疑心は、次の言葉で霧散した。
「奪いに来たぜ、エレイン」
 それは彼しか、知らないはずの誓いだった。バンだ。間違いない。バンが、エレインに元にいる。約束を果たしに、はるばる北の果ての異種族の森まで、危険も顧みずにたどり着いてくれた。
 バンは夢の、いや、あの7日間の頃と変わらない、ゆったりとした口ぶりで事の次第をエレインに敷衍する。
「遅くなって悪かったな、エレイン。この辺の里の奴らはどいつもこいつも口が堅くてよ。泉の正確な位置を掴むのに時間食っちまった」
 バンは謝るけれど、何気ない口ぶりでここまでの経緯を告げるけれど、彼のかけた手間隙と苦労をエレインは知っている。それほどまで、この森と聖女は周辺に住まう人間たちの畏敬の対象だった。森の木の実を摘みに入るだけで、年に数回、大げさな儀式とエレインが食べもしない生贄を捧げてくる彼らの口を、土地の人間以外に極めて排他的な彼らの口を、バンは一体どうやって割らせたのだろうか。
「おバカさん……」
 唇の裏で呟いたはずの言葉は、音となって外に漏れた。途方もない苦労を、たった7日間共に過ごした妖精のために費やすなんて、バカにもほどがある。誰にも優しいわけじゃないと、彼自身が言ったくせに。
「お。そりゃぁ、エレイン、随分だな」
 まだ怒ってんのか。謝っただろう。バンは見当違いに頭をかいて苦笑いを浮べている。苦労なんてないさと、言わんばかりの彼の何気なさが愛しかった。

 エレイン。
 エレイン。
 エレイン。

 また彼に、飽きるほど名を呼ばれている。空想ではない、思い出ではない、本物の彼の声だ。
 好きだと告げる彼の声と、触れ合えなかったキスが蘇る。それだけで天にも昇れそうなほど、心が踊る。うっかりして、また肉体から魂が飛び出てしまいそうだった。
 どうにかして、バン。そんなエレインの、言葉にならない想いにバンは応える。上体を傾け、奪うことに長けた二本の腕がエレインへと伸ばされた。夢でも良い、この記憶さえあれば生きていけると、心にしまっておいたはずの彼の腕。エレインの体を幾度となくすり抜けたその腕が、力強い感触を伴ってエレインの腰に回された。
 彼女の小さな体は、軽々と彼の胸の高さまで抱え上げられる。高さの揃った視線の先で、ニヤリとあくどく、彼が笑った。
「強奪完了」
 彼らしいその笑顔に、嫌な予感はもうしない。むしろ愛しさが胸から溢れてたまらなくなった。心に突き動かされて、エレインはずっと触れたくて仕方がなかった、彼の首に腕を回す。今度は、自分から動いた。顔を寄せて、大好きな彼の唇にキスを。本物の、バンの唇がエレインに触れる。
「ん……っ」
 羽が撫でるような接触は、バンの方から深いものへと変えられた。重なった唇の皮膚という皮膚から、ピリピリと小さな稲妻が全身を突き抜けていく。甘い痺れはこう叫んでいた。
 好き。好き。彼が、好き。
 激しい想いは、唇の薄い肌を介して、エレインからバンへ、バンからエレインへとほとばしる。
「会いたかった……、バン……!」
「ああ、俺もだ……! もう離さねぇぞ、覚悟しろよ、聖女さま」
 夢でいいなんて、嘘だ。重なる唇に、彼の体温に、エレインは思い知る。あんなさよならは悲しすぎた。だからもう一度、彼に会って触れたかった。その願いが、叶っている。
 エレインが離すまいとバンにしがみつく。バンも強く彼女を抱き返す。生命(いのち)の泉のせせらぎを背後に、二人の腕と唇は、それからしばらく互いを離そうとしなかった。





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