6. エレインの依頼 後編




 表紙を開いたページは、想像していたような文字がずらずらと並んだ本とは違った。何かの図柄のような、紋章のような絵が1ページにひとつずつ大きく載せられている。植物や、人の姿、獣を模したものもあれば、今では伝説となってしまった古の生き物の姿もある。多くは、リボンに似せた模様に囲まれ、内側には人間の使う文字が綴られていた。
 これが一体何の本なのか、エレインにはわからない。あまりのわからなさに、彼女は次々と風でページをはためかせた。
 ページをめくりながら現れては消えていく図柄を前に、エレインは次第にそれらに見覚えがある気がしてならなくなる。一体どこで、と記憶を手繰る。そして宿に来る前、バンがたらふく食べていたテーブルに乗っていた酒瓶のラベルに行き着いた。
「そいつはバーニャのラベルだな」
「バン」
 背後から声が降るのと、床に置いた本が取り上げられるのはほぼ同時だった。いつの間に起きたのか、ベッドから降りた、バンが本を片手にエレインを見下ろしている。
「寝ないの?」
「眠れねぇヒマ人のお前に解説してやろーと思って」
 バンはいつ目を覚ましていたのだろう。初めから、眠ってはいなかったのか。ならあの寝相はなんだったのか。
 わざわざ眠らないエレインのために、彼は居心地の良いベッドから出てきてくれたというのか。たくさんの疑問と、その裏から覗く彼の優しさに、エレインの胸がコトンと小さな音を立てた。
 エレインが覗き見し、バンが手に取った本は、彼曰く「お宝」のエールラベルコレクションだった。ベッドに腰を下ろしたバンは、エレインを隣に招いて本のページをめくる。現れたラベルにひとつずつ、バンは説明を与えてくれた。どこの産地で、材料はどれで、どんな味がするのか。図柄の意味と、その土地にまつわる彼の自身の物語を添えて。その最後の部分に、エレインは最も興味を惹かれて耳を傾けた。
「バーニャはやっぱ水だよなぁ。グルートがよく効いててよ。リンゴベースだから、お前の口にも合うかもな」
「お酒なんて、みんな同じだと思ってたわ」
「同じならコレクションなんざしねぇよ。いつかブリタニア中のエールを飲みてぇな。飲まずに終わっちまったら、死んでも死にきれねぇってやつだ」
 未完成のコレクションを手に、完成の日を夢見るバンは幸せそうだ。楽しげなバンの表情にエレインの気持ちも引きずられる。これこそ、バンの持つ不思議な魅力の最たるものだった。
 悪いことでも、いけないとわかっていても、楽しそうなバンを見ていると少しくらいはいいかと思ってしまう。毒されていると自覚する間もないくらい、バンの笑顔はエレインの心を照らしていく。ロクサヌの屋敷でのようなことはもう嫌だけれど、こんな穏やかな時間が続くのなら彼と共にいるのも悪くない。妖精王の森の聖女として、そんな想いはあるまじきものと、エレインは意識しない。意識することを懸命に避けている。その同じ心で、エレインは誰に向けるでもない願いを繰り返した。

 もう少し、あと、少しだけ、聖女でも何者でもない時間を。

 700年の孤独の果てに、ようやく訪れた他人の気配。バンから放たれる眩しいそれに、エレインは知らず知らずのうちに溺れそうになっている。
「本当にたくさんあるのね。あ、ねぇ、あれは?」
「どれだ?」
「最初のページよ」
 エレインが小さな風でバンがページをめくるのを手伝った。現れたのは、ベリーの絵柄とそれを収穫する男性が描かれたラベルだった。
「アバディン……って、確かこのあたりのことよね。でもさっきは飲んでなかったわ。一体どんな……、バン?」
 先ほどまで淀みなく流れていたバンの声がぴたりと止まった。エレインがバンを見上げるなり、二人の顔の下で本がパタンと閉じられる。
「今日はここで終いだ。寝るぜ」
「え、でも……」
「おやすみ、エレイン」
 言い終えるや否や、バンはラベルコレクションごとベッドにもぐりこんでエレインに背を向けた。それからはエレインが何を尋ねても何も答えてくれないまま、今度こそ完全に彼は寝入ってしまった。
 狸寝入り。エレインはバンの背中に首を振る。彼がエレインとの会話を拒否した可能性を、彼女は考えたくなかった。唐突な終わりに、部屋は静まり返っている。夜の沈黙の中で、エレインは彼の話がとても楽しかったのだ、もっと話していたかったのだとと遅すぎる自覚を果たした。
 そして朝が来て、昼が来て、バンはゆうべと同じ姿勢でベッドに横たわっている。シーツに包まっているのはエレインのクレームへの配慮だった。
 今夜の盗みに備えると言って、彼はいびきをかいている。彼の頭の下には、あのラベルコレクションが敷かれていた。柔らかなベッドの枕を脇において眠る姿は、エレインが本に触ることを拒んでいる。
 あの時、エレインはバンの何かに触れてしまった。その何かは、アバディンエールのラベルにある。というより、ラベルの傍らに小さく綴られた文字が問題だったのだろう。

with ZHIVAGO(ジバゴと)

 バンのものらしい手跡は、それはひどい癖字だった。
 ジバゴ。エレインの心は、その名を繰り返し続けている。
 幼いバンが慕う中年の男性なら父親という予想が真っ先に立つ。しかしエレインは心の中で首を振った。記憶の水鏡で見た、彼の笑顔。彼にとって「ジバゴ」とは、父親以上の存在だ。
 きっとそうだ。エレインは思った。「ジバゴ」とは、バンにとって他人に触れられたくない、大切な、とても大切な何かなのだ。その名を綴った走り書きについても、「ジバゴ」そのものについても、彼は誰にも説明する気はない。
「誰なの、ジバゴって」
 これでは、ロクサヌのときと同じだ。彼は彼の過去に口を噤む。聞けない問いを口の中で転がす、エレインは寂しさを抱えていた。聞けないこと、打ち明けてもらえないことが、どうしてこんなにも胸を苦しくさせるのかはわからないまま。



 エレインがバンに盗み出して欲しいもの。それはロクサヌのラウンジに飾られていた、妖精族の羽が入った額縁だった。
 夜になって忍び込んだロクサヌの館で、ようやくエレインからそう打ち明けられたバンは「まぁ、そうだろうな」と頷いた。
 初めて彼女とここで出会ったとき、彼女は妖精族の羽を納めた額縁の前に立っていた。その姿を見て、バンは彼女を女の子の像だと誤解したのだ。だから彼女が像ではないと知り、妖精だと主張したのを聞いたとき、この羽の持ち主が化けて出たのかとバンは思った。
 妖精族の羽は、不老長寿の薬として高値がつく。バンたち盗賊の間では常識だ。ロクサヌは、羽に薬効より美術品としての価値を求めているらしく、彼女のようなコレクターのおかげで、値は右肩上がりを続けていた。
 妖精族に関わるお宝として、最も価値が高いのは彼らの遺体だ。腐敗しないと噂のそれは、人間の子どもに似た美しい容姿をしたものがとりわけ人気が高い。高いだけにそうやすやすと出回るものではなかった。その珍しさは、数年前、およそ200年前に死んだ妖精の亡骸がひょっこり地下のマーケットに現れた際、珍しいものには慣れっこの闇商人たちを騒然とさせたほどだ。現存する妖精族の遺体の中でも、200年前と言えば極端に新しい。
 妖精族が、もともと少なかった人間との交流を絶って久しいとバンは聞く。流れた時間は、彼らをおとぎ話の住人にした。だからこそ、目の前に現れた妖精族の遺体に裏社会の人間たちはざわついたのだ。妖精は今も実在する。噂はひそやかに広まり、一時は下火となった羽の需要が蘇った。遺体に比べて、羽は金さえ積めば手に入る。今ではそれが、裏社会とつながりを持つ者たちの共通した認識になっていた。
「それがコイツか」
 バンも実物を間近で拝むのはこれが初めてだった。遺体が欲しい、羽を運んでくれと顔なじみの闇商人から依頼されたことは一度や二度ではない。けれど、その全てを趣味じゃない、興味がないと彼は断り続けていた。
 虫の羽のような極めて薄く精巧なつくり、きらきらときらめくそれは確かに美しかった。当然、レプリカも横行していて、真贋は慎重に見極めなければいけない。しかし、妖精を名乗るエレインが是が非でも盗み出してくれと言うのだ。ロクサヌの館に納められたこの一品だけは、鑑定の必要はなさそうだった。
 しかし、
「どっからどう見ても、トラップだよなぁ」
「トラップ?」
額縁(こいつ)に触ろうもんなら、警報が鳴ってあっという間に捕まっちまうってこと」
「盗めないの?」
「これだけでかい品持って、逃げ切れる保障はできねぇな」
 なかなか立派な羽らしく、広げたそれをゆったりと納めた額縁は、バンでも抱えるのに苦労する大きさだった。いくら夜陰に紛れても、目立たずに移動することは至難の業だろう。
 ロクサヌの館はアバディン一と言われるだけあって広いつくりだ。一番の逃げ道は、ラウンジから続くバルコニーを足場に外に飛び出すことだが、その先には高い塀が待っている。一度庭に下りてから飛び越えようにも、塀の足元には池が広がっていてそれも難しい。もちろんバンひとりならそう大した苦労ではないが、今回ばかりは大きな荷物がある。集まってくる見張りたちが、バンにそれを何とかするだけの猶予を与えてくれるはずがない。おまけに主人のロクサヌには昨日の賭博大会で大きな借りがある。捕まったら何をされるかわかったものではなかった。
「面倒くせーな……」
 想像以上にやっかいな仕事を前に、バンは呻いた。強いて可能性があるとすれば、エレインの風だ。あの賭博会場からの逃亡劇で見せた、エレインの風をつかった飛翔方法。しかしそれも、バンが身軽であることが大前提だ。額縁なんて風の影響をモロに受けるものを抱えていては、どこに飛ばされるかわからない。また、額縁自体の耐久にも懸念があった。ヒビでも入ろうものなら、中身の羽が傷つく。
「お願い……」
 小さな声がした。か細く、力ない彼女の声を、バンはこの時初めて耳にした。命を懸けるにはあの金額では少なすぎる、どんなに金を積まれてもできないこともあると、バンがエレインを諭そうとした寸前に、届いた声音はバンの胸の戸を叩いた。振り向いて見たエレインの切羽詰まった物悲しげな顔に、バンの意識は強く引き込まれる。
「あなたにそんな義理なんてないのはわかってる。でも、お願い。私は、(これ)がここにあることを見過ごせない。兄さんが、故郷(くに)を捨ててまで守ろうとしたものなのよ」
「兄さん?」
「私の兄さんは、妖精王。妖精族の王で、妖精王の森の主だったわ。兄さんが森を守ってくれているおかげで、私たちは平和に暮らしていけたの」
 けれど700年前のある日、その平和は脆くも崩れ去った。悪意ある人間の手で、森の外におびき出された数名の妖精たちが誘拐され、王は、エレインの兄は彼らを救うために故郷を後にした。強欲な人間たちの目的は、妖精たちがもつ羽だった。
「人間は、私たちの羽が薬になるって信じてる。でもそんなのは嘘よ。妖精族はもともとが長寿なだけ。だけどそんな話を人間たちは信じてくれない。聞いてくれもしない。羽が綺麗だからって、お金になるからって、人間は私たちの仲間を傷つけて、殺してしまうのよ」
 バンとエレインの前にある羽もそうだ。人間に狩られ、生きたまま羽をむしられた。おそらくずっと昔に殺されたであろう持ち主と、今なお離れ離れにされた羽を、こんな姿にはしておけないのは同族なら当然の想いだった。
「兄さんは、帰ってこなかった。今もどこかで、仲間を、奪われた羽を取り戻そうと人間たちの間を飛び回ってるのかもしれないわ。私はその間、ずっと兄さんに代わって森を守ってきたの」
 そして今度は彼女自身が、森に守られた妖精族の宝、生命(いのち)の泉をめぐって、人間たちの悪意に晒されることになった。
 エレインの告白を、バンは黙って聞いている。それはバンには想像もつかない、妖精族と人間をつなぐ憎しみと誤解、そして強欲の連鎖だった。この場所で出会った夜に、そして街から出るあぜ道の上で、彼女から向けられた敵意の意味がようやくバンの胸に届いた。
 エレインが顔を伏せる。華奢な肩が震え、小さな手が握り合わされている。彼女は、声の揺らぎを懸命に抑えようとしていた。
「本当はあの時、私も兄さんについて行きたかった。でも勇気がなかったの。後悔してる。ずっと。だからせめて、目の前に取り戻せるものがあるなら、私は取り戻したいの」
 どんなにそう願っても、今のエレインでは仲間の羽に触れることすら叶わない。頼れるのは、彼女の姿が見え、声が聞け、盗むことに長けたバンだけだった。
「お願いよ、バン。どうか助けて」
 エレインが、その悲痛な面をバンに向けた。彼女の後悔を含んだ願いは、バンのさび付いた心の扉をわずかに押し開けた。数年ぶりに開いた隙間から、さまざまなものがバンの胸にあふれてくる。
 エレインは、後悔があると言った。取り戻したいとも。それはバンも同じだった。「どうしても取り戻したいもの」なら、バンにもある。だから、彼はこの街に戻ってきたのだ。同族の羽に向ける彼女の気持ちは、痛いほどによくわかった。
 バンはエレインを見た。大きくて丸い、彼女の瞳には強い光がある。そして、彼女が欲しがる羽に目をやった。大きな額縁は、盗めるものならやってみろとバンを挑発している。同時にその内側から、助けてと叫ぶ声がする。エレインがバンに向けた、悲痛な声と重なって聞こえた。
「……わかったよ、エレイン。お前も勝ちだ」
 再びエレインを見下ろす、バンの口元には笑みがあった。とたんに、エレインの瞳が輝きだす。灯りもないのにどういう仕組みだ、と不思議に思いながらも、バンは彼女のその光が好きになっていた。
「バン……!」
「ただし、盗んだあとのことは保障しねぇぜ」
 エレインが頷くのを見届けて、バンは彼女を下がらせると妖精の羽に向き直った。バンの動向をエレインが固唾を飲んで見守る気配が、振り返らずともよくわかった。
 ふっ、とバンは短く息を吐く。これからやるべきこと、起こることに集中する。ロクサヌの屋敷に忍び込んで、これで三度目。過去二回は、いずれもしくじっている。今度こそ、三度目の正直とバンは覚悟を決める。彼女のためだけではない。彼自身のためにも、この仕事(ヤマ)だけは果たしてみせなくてはならなかった。
 ついにバンは、腕を伸ばす。罠と承知で、その額縁に触れた。





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