3. わるいこと 前編




 「ダメよ、絶対ダメ!」
 エレインは肩を怒らせながらバンの前に出た。行く手を遮られたバンは邪険に払いのけようとするけれども、手は彼女の体をすり抜けてしまって意味がない。逆を言えば、彼女の行動もバンの前進を妨げるものではなかった。ひとり手をバタバタと振り回して歩くバンの姿に、行きかう人々は怪訝そうな眼差しを向けては通り過ぎていった。
「賭け事なんて絶対ダメ!」
「うるっせぇなー。俺が何しようと俺の勝手だろ」
 言い訳さえ面倒くさそうに、バンは小指で耳をかいた。エレインを見ないその表情からは、市場で見せてくれた穏やかな雰囲気が消えてしまっている。言い争う二人は、あぜ道の上にいたころに逆戻りしていた。
「だいたい、参加するのにだってお金がかかるんでしょう?」
 バンがエレインの鼻先で開いて見せた、カード賭博大会の概要には参加費の項目があった。市場でリンゴひとつも買えないバンに、用立てられるはずがない。
「どうするつもり?」
「そりゃあ、もちろん」
 バンはニカッと笑ってみせる。彼の満面の笑みは、夏の朝みたいにすがすがしくて、幼く可愛かった。しかし、リンゴの件を知るエレインには、彼が悪事に手を染める予兆にしか見えない。こんな無邪気な顔で人のものを盗める彼は、盗むことにかけて何の罪の意識も抱いていないらしい。
 案の定、バンはすれ違った男から財布を失敬した。市場のときと同様、見事な手並みだった。本日二度目の窃盗に、エレインも二度目の風で応酬する。しかし一度目すら避けて見せたバンが二度目を食らうはずもなく、突風に巻き込まれた人から、彼がさらに金を掏る機会を与えただけに終わった。
「ご協力どーもな、エレイン」
「バン!」
 どうしてわかってくれないの。エレインは怒りに燃えていた。700年、森を侵略しようとする人間たちに向けてきたものとは、何か違う感情に彼女は動かされていた。
「ついでにもうちっと、お前の力を貸してくれよ」
「嫌よ、私は賭け事なんて絶対に嫌なんだから!」
 懸命な主張もむなしく、エレインはバンを止められなかった。彼を行かせまいと立ち止まってみても、20ヤードの見えない紐で引きずられるのは体重の軽いエレインのほうだ。風の攻撃も、周囲に迷惑をかけるばかりで効果がない。あれよあれよという間に、エレインは賭けの会場に連れてこられた。
「昨日ぶりだな」
 アバディンの南側の一等地に構える貴族ロクサヌの豪邸は、昨日の今日で馴染み深い。カード賭博大会の主催者にはこの館の女主人の名が挙げられ、ゆうべバンが侵入した本館とは別の、離れの建物がまるまる会場にあてられている。バンを止められず、また彼から離れることも出来ないエレインは、しかたなく彼の後について会場に入った。
「金ピカね……」
「趣味が悪ぃよなぁ」
 柱からカーテン、絨毯にいたるまで、金色で統一された内装は正直言って目に痛かった。しかし、一夜の夢を買いに来たギャンブラーたちの興奮をあおるにはうってつけらしい。開場まもないにも関わらず、すでにあちこちのテーブルで勝負が始まっていた。
「手はずどおりに頼むぜ、エレイン」
 空いた席に腰を下ろすバンに、そう耳打ちされてエレインはげんなりと肩を落としたが、勝負にウキウキとしているバンは目もくれない。
 不意に背後から上がった喝采に、エレインは驚いてあたりを見回した。
 誰も彼もが、自分の勝負と金の行く先を追うのに必死だった。行きかう使用人さえ忙しなく、エレインのスカートを当然のようにくぐっていく。やはり、彼女の姿が見えるのはバンだけだ。そのバンが、今は他のギャンブラーと同じく自分の手札に夢中になっている。彼が見てくれないのなら、この場所でエレインを見てくれるひとは誰もいない。まるで世界にひとり取り残されたような疎外感に、エレインを取り巻く音は遠退いた。
 俯くと、バンのテーブルが目に入る。彼の指示は単純だ。彼の周囲に座った相手のカードを見て、それを伝えること。エレインの声は聞こえず、姿も見えない。だからバンは堂々と不正ができる。
 もちろんエレインは嫌がった。カードのことはよくわからないが、バンの口ぶり、態度、周囲の人間たちの動きを見ていれば、自分がやらされていることがルール違反なことくらい気づいていた。
 嫌だ嫌だとエレインは、大会に参加するとき以上に言い募ったけれど、バンはよく回る舌先三寸を使って丸め込んでくる。例えば、
「相手のカードを覗き見するなんて卑怯なんじゃないの?」
 とエレインが言えば、
「俺は覗き見してねぇ。お前のひとり言を聞いてるだけだ。第一、相手の最初の手がわかったところで何だってんだよ。山をめくるたびにカードは入れ替わっていくんだぜ。あとは俺の腕と運次第ってな。この程度は卑怯の内に入んねーよ」
 とバンは首を振る。
「その『相手の最初の手がわかる』のは不公平でしょ?」
「わかってねぇな。いいか、ギャンブルってのはそもそも不公平なもんなのさ」
「どういうこと?」
「ここには何十人ってギャンブラーがいるが、そいつらのうち何人が儲けて帰れるか知ってっか? 儲けたと思ってる奴らだって、実はそうじゃねぇ。こういう場所はな、何をどうしたって胴元が勝つように出来てんだよ」
「どうもとって何?」
「ここを仕切ってる奴ら。つまりは親玉のロクサヌのババアだ。テーブルを見てみな。どこも必ずひとりは、ロクサヌ側の人間がプレイヤーに成りすましてやがる。奴らは仲間内でコンタクトをとって、最終的にはロクサヌが儲けるように動いてんだよ」
「一番のズルをしているのが主催者ってこと?」
「目には目を、イカサマにはイカサマをだ。今日まで、ロクサヌのババアに丸裸にされた連中は数えきれねぇ。そんなあくどい連中から俺がちょっとくらい金を巻き上げたところで、ご同業に感謝されても恨まれる筋合いはねぇの」
「変な理屈ね」
 バンの口八丁には絶対に騙されている気がする。心を読めばきっと彼の本音が見えるだろう。しかし、彼の胸の内を知ったからと言って、彼女の弁でこの口のうまい男を言い負かせるとは思えなかった。そんなことができたなら、そもそもこの会場には入らずに済んでいた。
 とどのつまり、エレインには折れるしか方法がなかった。彼以外に、彼女を誰も見つけてくれない寂しさもあっただろう。こんな騒々しい場所で孤独を噛みしめるのは、妖精王の森での700年とは違うつらさがあった。だからいつまでもごねているより、協力することで一刻も早く彼をこの場所から連れ出すほうが賢明なのだとエレインは自分を納得させた。ズルだろうとなんだろうと、一通り楽しめば、バンとてエレインの言うことを聞いてくれるはず。そう言い聞かせて、エレインは、バンが指示した相手の後ろに回りこんだ。
 エレインの密告を受けたバンは、ファーストゲームを快勝した。勢いに乗った彼は次々にゲームを進め、お情け程度だった元手をどんどんと増やしていった。相手の賭け金が自分の金と合わさり、大きな山となって返ってくるたびに、バンは子どものようにはしゃいで見せた。
「カカカッ、いいねぇいいねぇ! 笑いが止まんねーぜ!」
 バンの幼い歓喜の声に、エレインの心は曇っていく。子どもじみた所作は同じでも、市場で見せてくれた姿とは、今の彼はまるで違った。
 ここはまるで、毒虫の壷のようだ。
「もう充分でしょう、バン……」
 エレインはだんだんと悲しい気持ちが強くなっていくのを感じた。妖精族は総じて欲への感性が鈍いから、人間たちがむきだしにする、この<強欲>の毒々しさが耐え難い。このまま金にまみれていくバンの姿を見続けていたら、彼を嫌いになってしまいそうで見ていられなかった。
「そうだな。まぁ、こんなもんだろ」
 バンがようやくエレインの呼び声に応じてくれたのは、どうしようもない気持ちを抱えて、彼女が何度目かの訴えをしたところだった。エレインの寂しさをバンが斟酌してくれたわけでは決してない。バンはエレインを見ないのだから当然だ。今の彼の目に映るのは、手に入れた金貨と銀貨の山ばかり。それでも、バンが帰る意志を示してくれたことにエレインはほっと胸をなでおろした。
 バンの元手、正確にはバンがすって集めた金は、今や数十倍に膨れ上がっていた。ズボンのポケットに詰めても詰めきれないほどの金貨銀貨は、素寒貧になった参加者から、空の財布を買い上げてようやく収まったほどだった。バンから金を恵まれた参加者は、再び嬉々として賭けのテーブルにつく。エレインはますます人間がわからなくなった。
 パンパンに膨れた財布とポケットに、バンはほくほく顔で席を立った。しかし、いつの間に現れたのか、彼のまわりを強面の集団が取り囲む。
「バン……」
 この人たちは、一体。エレインは不安になって、バンに寄り添う。バンもさりげなく、誰にも見えないはずのエレインを背中にかばった。全員同じお仕着せを身につけた、彼らは他のプレイヤーたちとは別種の存在だった。誰も彼もが巨漢と呼べる体格で、それでも目線はバンのほうが高いけれど、彼らは居丈高に帰ろうとするバンの行く手を阻んだ。
「ロクサヌ様が、お話したいそうです」
 その言葉で、彼らがロクサヌの手下であることがエレインにもわかった。バンの言う、ロクサヌの勝利のために動いている人間たちだ。彼らは有無を言わさず、バンを建物の奥へと連行した。
 バンが乱暴に通された部屋は、金ぴかの会場と打って変わって赤一色だった。ガラス張りの大きな窓から、会場での参加者たちの一喜一憂を一望できる。部屋の中央には、巨大な、これまた血を塗ったように赤いソファが会場に背を向けて置かれていた。
 エレインは息を飲んだ。赤いソファに、黒い帽子を被った生首が浮いている。
「ようこそ、ラッキーボーイ」
 生首がしゃべった。口元にタバコをやる仕草で、ようやくエレインは、生首が生首ではなく、首の下をすっぽりと覆う赤いコートがソファーと同化しているだけなのだと気づいた。脚を組んで座る彼女は、背丈ではエレインとそう変わらないくらい小柄だった。
「わたしがロクサヌよ」
 ロクサヌの声はひどくしわがれている。タバコで喉を焼いたのだろう。帽子から垂れた薄いヴェールが、ロクサヌの顔を上唇のあたりまですっぽりと覆っていた。ヴェールの奥で、ロクサヌの落ち窪んだ目がバンを映している。
 エレインは、ロクサヌの視線をなぞってバンを振り返って驚いた。老いた女貴族を見返すバンの瞳は、ぞっとするほど冷たかった。彼の瞳は、燃える炎を内に宿したルビー色だったはずなのに、今は凍った血のように硬くて重い。
 どうしたの、そうエレインが尋ねる前に、ロクサヌが続けた。
「あなたの幸運が本物か、確かめさせてちょうだい。ラッキーボーイ」
「ババアの相手してやるんだ。レートは上げてくれるんだろうな」
「ダメよ、バン。やめて」
 ロクサヌがバンの不正を怪しんでいるのは明白だ。そして彼女の読み通り、彼はエレインを使って不正をしていた。それなのに、やる気満々で受けるバンに彼女は焦った。
「帰りましょう。ね、帰るって言ったじゃない」
 エレインは怖かった。ロクサヌの疑惑も、欲にまみれたこの場所も、バンの冷たい瞳も、何もかも、怖い物だらけだった。何より恐ろしいのは、この勝負を受けたバンが、エレインのまるで知らない人間になってしまうことだ。バンの何を知っているのか、自分に問いかける冷静さは今はない。
 バンは返事をしなかった。代わりに視線だけで彼女に答える。その紅い目を見れば、エレインは彼がまた彼女を使ってこの勝負に勝とうとしてるのだとわかった。エレインは首を振った。これ以上、悪いことに協力なんてしたくない。イカサマ行為も、彼女の怖いもののひとつだった。
 エレインの拒絶に、バンは一度首をすくめただけだった。声にならないやりとりを、エレインの姿が見えないロクサヌたちが気づくことはなかった。バンは、ロクサヌに言われるがまま勝負のテーブルにつく。
「バン、ダメ……!」
「勝負はこれよ、ラッキーボーイ」
「ダイスか。ババアはカード専門かと思ってたぜ」
 ロクサヌに、エレインの声は聞こえない。しかし、バンには聞こえるはずだ。それなのに、彼はエレインではなくロクサヌに向けてしゃべっていた。あからさまにバンに無視されたことで、エレインの胸がきゅっと痛む。すぐ傍にいるはずの、バンがずっと遠のいて見えた。再び、世界に一人きりにさせられた孤独感が押し寄せる。
 エレインが協力を拒んだことへの、これがバンの報復ならその効果は十分だ。
「バン……」
 ロクサヌとバンの勝負は、二つのダイスを同時に振って出た目で競う。数字の大小より、重要なのは数字の組み合わせだ。こんな勝負では、たとえバンに協力したとしても、物に触れられない彼女に出る幕はなかった。
 自分が彼に必要ないことを知ると、エレインはふらふらと勝負の部屋を後にした。肉体を持たない彼女に、扉や壁は無意味だった。バンに突き放されたショックを引きずったまま、彼から離れられるギリギリまで、エレインはロクサヌの屋敷を進んだ。
 彼女の眼下では、勝負に泣き笑う人間たちの姿があった。
 負けに怒って相手に掴みかかる者、文無しになった挙句悲しみを通り越して不気味笑い出す者、かりそめの栄華に酔って踊り狂う者。誰ひとり、孤独なエレインの心を慰めてくれる者はいなかった。
「バンが、負けちゃえばいいのに……」
 会場から目を背け、来た道を振り返ればバンとロクサヌが対峙する部屋の入り口が見えた。バンはいないから、エレインの本心を聞きとがめるものは誰もいない。
 ロクサヌがバンに向けた疑惑は正しい。バンはエレインを使ってイカサマをしていた。そうしてお金を儲けることが、良いことのはずがない。かわいそうだけれどバンはロクサヌから相応の報いを受けるべきだ。それが彼のためだと思った。
 そうして正気に戻れば、バンはきっとまたエレインを見てくれるだろう。市場で見せてくれた、あの幼くて、無垢な、可愛い笑顔を取り戻してくれるはず。そんな期待に縋って、エレインはバンの視界から追い出された苦痛に耐えた。
「バンの、ばか」
 ロクサヌに叱られたって知らないんだから。私のことを無視するからよ。彼の紅い瞳の先がすっとエレインから外された瞬間に、胸を襲った痛みが蘇った。




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