4. わるいこと 後編




 「あの若造も運がねぇよな」
 ふいに耳に飛び込んできた声に、やるせなさの中にいたエレインは顔を上げる。聞き覚えがあるその声は、バンをロクサヌの前まで連れてきた、あの強面の男たちのひとりだった。
「ロクサヌ様の魔力『胴元』(ブックメーカー)の力も知らねぇで……」
「あの方がダイスで負けるはずがねぇのさ」
 エレインは無警戒でしゃべる彼らに近寄った。バン以外は見ることのできないエレインの姿を、やはり彼らは知覚できない。エレインに聞き耳を立てられているとも知らない、彼らの話をまとめるとこうだった。
 ロクサヌは確率を操る魔力「胴元」(ブックメーカー)の持ち主だった。確率を支配する彼女は、ありとあらゆるギャンブルに勝ってきた。カードしかり、ルーレットしかり。特にダイスにおいて、彼女は今日まで負けなしだった。
「この会場の勝率も、ロクサヌ様の意のままだ。どんなに勝った気でいるプレイヤーも、結局はロクサヌ様に負けるんだよ」
 自分の力でもないのに、男たちは得意げだった。絶対に負けないギャンブルほど、面白いものはないと彼らは笑う。
 バンの言葉は正しかった。すべてのギャンブルは、最終的に胴元が勝つように仕組まれていた。ロクサヌたちは、この会場全体でバン以上のイカサマに手を染めていた。バンが目を付けられたのも、彼がロクサヌの勝率から逸脱した勝ちっぷりを見せたせいだった。
「あのガキ、潰されるぜ」
「イカサマなんざしねぇで、素直に絞りとられてりゃいいものを」
「勝負に負けりゃ借金地獄。イカサマがバレりゃ一生奴隷働き。そんなとこだろ」
「だから運がねぇって言ったのさ」
 彼らは下劣な笑い声を上げた。勝っても負けても、バンは無事にここを出られない。図らずも彼の窮地を知り、エレインは大急ぎで元来た道を引き返した。バンが負ければ良い。そう願ったことも頭から忘れていた。
 エレインはバンとロクサヌの勝負部屋に飛び込んだ。一刻も早くバンに事情を説明しなければいけない。しかし、エレインは一歩遅かった。すでに最後の勝負が始まっていた。ターンはロクサヌ。彼女の鶏の脚のような手からダイスが転がり出る。二つのダイスが、天板に敷かれたビロードの上で踊った。
 コロン、コロン。ビロードの上で、弾むダイスの音は軽やかだ。ダイスのデュオに、エレインもつい目が奪われる。コロコロ、コロコロ。バンの運命を背負う小さな立方体が、バンを目指して転がり続ける。
 ふと、エレインは何かが部屋を覆い始めるのを感じとった。熱量のようなそれは、強い魔力だ。しかしロクサヌの魔力はとっくに会場全体におよんでいるはず。彼女のものではないとすれば、残された可能性はバンしかない。
 エレインはバンの魔力知らない。だから彼が遠く離れたものを引寄せる魔力「強奪」(スナッチ)を応用して、ダイスの出る目に干渉しようとしていることまではわからなかった。エレインにわかるのは、ここでロクサヌに勝ってしまったら、バンが非常にまずい立場に立たされることだけだ。いや、たとえ彼が負けてしまっても、もたらされる結果は身の破滅しかない。
 勝ってはいけない。けれど、負けては終わり。そんな勝負の決着の付け方とは。
 とっさの判断を迫られ、エレインは手を突き出す。市場でのこと、この賭博会場にたどり着く前のことを思いながら、そよ風の逆鱗はエレインの手から放たれた。威力を抑えたつむじ風は、「強奪」(スナッチ)がダイスに触れる間際に、バンとロクサヌの間で転がるダイスをテーブルごと吹き飛ばす。ロクサヌの小さな体がイスから転がり落ち、会場に面した窓の何枚かが砕けた。
「バン、逃げて!」
 エレインは叫んだ。その声にやっと、バンがエレインを見た。冷たく暗い瞳に、ぽっと小さな灯りがともるのをエレインは見つけた。今ならきっと、彼女の声は彼に届く。
「あなたの言うとおり、この人たちズルしてる。あなたを捕まえる気よ!」
「来い、エレイン!」
 エレインの警告に、すぐさま危機的状況を察したバンは、ロクサヌとの間に転がるテーブルの縁を蹴った。一足飛びで、床に転がったロクサヌの小さな体をまたぐと、ガラスのなくなった窓から飛び出す。バンの身軽で大きな体が、ガラスの破片が突然降り注いで騒然としている会場に躍り出た。
 人間離れした跳躍力で、バンは大きく弾んだ。金に目の眩んだギャンブラーたちの頭上を飛び越え、バンは全力でロクサヌたちから距離を取った。
「捕まえろ!」
「逃がすな!」
 背後から怒号が追いすがる。前からも何人か現れ、行く手を阻んだ。
「エレイン、風だ!」
 バンの指示に従って、エレインは手をかざす。追っ手がいる後ろでも、前進を妨げる者たちにでもなく、すぐ目の前にいるバンに向けて。
 それは阿吽の呼吸だった。彼の心を彼女が読んだからではない。彼ならきっとこうするだろうと、エレインの頭にとっさにひらめいた。
 親指をぐっと立ててバンが笑う。市場で見た、あの眩しい笑顔だった。エレインの心がぱっと明るくなる。その笑顔を信じて、エレインは彼に向けて風を放った。
「ぶッ飛ぶぜぇ!」
 威力十分のそよ風の逆鱗に乗って、バンは飛んだ。会場の高い位置にある窓を突き破り、夜空を駆ける。エレインも、すぐに20ヤードの見えない紐に引っ張られて後を追う。流星になったように、星空が、アバディンの街灯りが、エレインを通り過ぎる。加速していく世界の中で、ただ前をいくバンの背中だけがはっきりと見えた。



 「危ねぇ橋だったが、俺もお前も無事だし。オッケーだろ?」
 いきなり現れた大男に、夜会に集まっていた野良猫たちが四散する。うまく転がり落ちた誰かの屋根の上で、バンはエレインを振り返った。
 エレインの風の力で、ロクサヌの追っ手は振り切れた。身の安全を確かめたバンのあっけらかんとした物言いに、エレインは一連の騒動を彼がまったく反省していないとわかってあきれ返る。バンがロクサヌの賭博会場でイカサマに手を染めなければ、こんなことにはならなかったのに。
「あなた、『自分を戒める』ってことを知らないの?」
「イマシメル? 何ソレ。旨ぇのか?」
 またこれだ、とエレインは天を仰ぐ。その後も続いた彼女の諌めもどこ吹く風。バンは、路地に下りると真っ先に酒場へと足を向けた。
 ひと仕事終えたご褒美だと言って、豪勢な夜食を景気良く注文する。テーブルいっぱいの料理をバンはかきこみ、エールをジョッキで二杯ほどあおった。人目を引くほどの大盤振る舞いに、エレインはロクサヌに嗅ぎつかれるのではないかと気が気でない。しかしロクサヌに見つかって一番まずいはずのバンは、大いに食べ、大いに酒を飲んで満足すると、臆することなく千鳥足で宿を探し始めた。
「ここで一等良い部屋を頼むぜ」
 宿でもバンは大枚をはたいた。ロクサヌから巻き上げた金貨銀貨のつまった財布を見せれば、宿屋の主人は揉み手をしてバンを特等室に通した。
「最っ高ー」
 エレインですら飛び込みたくなるようなふかふかの大きなベッドに、大の字になって倒れこんだバンはご満悦だ。エール二杯で夢見心地になるバンが、アルコールに弱いタチなのかはエレインにはわからない。ただ、バンのあまりの豪遊ぶりに傍で眺めているしかないエレインは、これが正しい金の使い方なのだろうかと眉を顰めた。
「こんなことのために、人間は……」
 その先を、エレインは口にすることを止めた。考えることも抑えようとした。考えた先にたどり着く結論に、どうせ待っているのは怒りや悲しみだ。それを、バンにむけても仕方がない。
 妖精と人間の確執に、おそらく彼は無関心だ。無関心な彼だからこそ、エレインは人間へのわだかまりを脇において傍にいられる。そこまでして、彼の傍にいる必要があるのかはまた別の疑問だった。
「でもやっぱり、イカサマはよくないと思うの」
「しつけぇなぁ、お前も」
「悪いことで手に入れたお金で、贅沢しても楽しくないでしょう」
「いーや、俺は楽しいね」
 枕に顔を埋めたまま、耳まで赤くしたバンは言い切る。市場のリンゴにまつわるやりとりから、何の進歩もない。倫理や道徳にまつわる議論は平行線だ。エレインが大きな徒労感にため息をつけば、バンがゆっくりと仰向けになった。彼は、赤ら顔をエレインに向ける。
「お前だって、イカサマだってわかってて協力したろ? だったら俺たちは共犯だ」
 これもやはり、市場から逃げた後のリンゴと同じ理屈だった。
 エレインは落胆していた。落胆する自分が、不思議でもあった。人間はそういう生き物と、知っていたはずだ。自己中心的で、争いが好きで、同族同士で殺しあうような<強欲>な種族。エレインは、そんな彼らとの戦いに明け暮れていたのではなかったか。
 今更、彼らに何を期待しようとするというのだろう。エレインはバンを見た。イカサマで得た金で、上質な寝床を満喫する賊の青年に、自分は何を。そう思うのに、胸のどこかにひっかかるものがある。サボテンの棘に似た、返しのついた何かがエレインの心の内側に刺さって離れないのだ。
 市場で見た彼の笑顔は好きだ。優しかった。見ていて心が明るくなる。はんぶんこと、差し出されたリンゴも嬉しかった。好物と言うわけでもないのに、食べられないことが残念だった。そして、女貴族と対峙した時に見た、彼の黙りこくった暗い瞳。人の心に敏感なエレインに、彼の中の何かが訴えかけている気がしてならなかった。
「あのロクサヌってひと」
「あン?」
「昔からの知り合いなの?」
 聞いておきながら、エレインは違うだろうと考えた。ロクサヌはバンを一度も名前で呼ばなかったし、バンもそうだ。一方で、バンのロクサヌに向けたあの冷たい眼差しが気にかかる。老いた女貴族と賊の青年の過去に因縁があるとしたら、それはどんなものだろうか。
「生き別れの、お母さんとか?」
 母親より、ロクサヌの年齢はバンの祖母に近いだろう。エレインの推察をバンは笑った。
「天地神明にかけて、それだけはねぇな」
 それ以外なら何かあるということか。バンがエレインに打ち明けてくれる日は来るのだろうか。噛み合わない価値観に、その日は遠い予感がした。
 そもそも、こんな日々はいつまで続くのだろうか。エレインは部屋の窓の外を見た。今夜は月がなくて、夜の闇に散った星が眩しい。だが妖精王の森ならば、きっとこの倍は星が見える。人間の街明かりが星たちの瞬きを邪魔しないからだ。
 妖精王の森と生命(いのち)の泉は無事だろうか。エレインは、方角もわからない夜空に、森の星空を重ねて想った。バンと出会って、まだ二日。ロクサヌの屋敷での遭遇は夜のことだったから、一緒にいる時間は一日半がせいぜいだ。その一日半の間に、エレインはたくさんの経験をした。盗むこと、ズルをすること、相手を騙し、悪意を持って追いかけられること。どれも妖精界にいては見ることのない光景ばかりで、心が苦しい。彼の傍にいる限り、金と欲に醜い人間の姿を見ていなければいけないのか。
「せめてバンが、人間の中でもマシだってわかればいいのに」
 バンの傍に、いること自体は苦痛ではないのだ。バンはバンなりに、気まぐれではあるけれど、欲に弱いという人間特有の悪癖を持っているけれど、エレインを思いやってくれる。しかし彼が好むスリルや娯楽の類が、エレインの性にどうしたって合わない。
 エレインは、バンの膨らんだ財布を見やる。あの金を手に入れてからのバンのはしゃぎようからして、彼を真人間にするのは難しいことのように思えた。ならばせめて、彼が自分の欲ばかりで行動する人間ではないことを確かめたい。
「ねぇ、バン」
 エレインの呼びかけに、バンの紅い視線が彼女に向けられる。その眼差しだけを切り取るのなら、バンの瞳は深い、綺麗な色をしていた。目は魂の鏡、瞳は心の窓。古の妖精族が遺した言葉が正しいのなら、目の前の強欲な青年にも救いの余地はあるはず。
 これはバンのためだ。そして彼と共にいる、エレインの精神安定にも関わる重要な問題だ。その二つの目的のために、エレインは、あることを決意した。
「私たち共犯なのよね。つまり、罪を分かち合ってるってことよね。あのリンゴみたいに」
「まぁ、そうだな」
 エレインの態度が変わったことに、気づいたバンがうっそりと身を起こした。顔はまだ赤みが強く、エレインを見上げる目には警戒の色が滲んでいた。
「だったら、今日あなたが手に入れたお金も、半分は私のものでしょう?」
 罪が半分なら、罪によって得たものの等分されるべきだといエレインの論旨に、バンは話の行く先を探って、かすかに眉間に皺を寄せた。ここにきて、急に金に興味を持ち出した彼女の豹変を、バンはいぶかしんでいる。
「お前のものって……、使えねぇだろ?」
 金も、金によって手に入れたものにも、エレインは触れられない。もっともな指摘だったが、エレインは胸を張って首を振った。
「いいえ、使えるわ。そのお金であなたを雇うのよ」
「は?」
「市場で教えてくれたじゃない。人間は、働いてお金を得るって。だから、お金さえ払えば、バンが私のために働いてくれたっていいのよね」
 全部バンが教えてくれた話だと、エレインは得意げに笑った。
「……俺に、何をさせてーんだよ」
 話はそれからだ、とバンは言う。思い通りの展開に、エレインはバンに顔を寄せてにっこりと笑った。エレインが笑えば笑うほど、バンの顔色が悪くなる。彼の笑顔に嫌な予感ばかり募る、自分の気持ちを彼も少しは味わえばいい。
「あなたに、盗んで欲しいものがあるの」




※ロクサヌのキャラクターは、当連載限定のオリジナルです。

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